君は千の冬を纏う

 東京という街は、蜘蛛の巣のようだと常々僕は思う。
 この大都市に覆い被さる綿密な鉄道網は複雑な綾を成し、頻繁に僕を翻弄する。しかし、俯瞰した時に見える点と線は、巨大な幾何学模様を描き、歪なりに美しいものだ。
 営団地下鉄日比谷線人形町駅近く、甘酒横丁の突き当たりを、右に左に折れて進んで行くと、眼前に瀟洒な建物が現れる。赤煉瓦で築かれた西洋風のモダンな建築物の入り口には『相島花天館』と書かれ、見るからに年代を経ていることが一目で分かるだろう。相島花天館はこの地で、数々の無声映画やトーキーを上映し、人々に愛されてきた常設館の一つだった。
 人もまばらなその建物に足を踏み入れた僕を迎えたのは、一面に貼られた映画のポスターだった。かつて銀幕で活躍した綺羅星の如き美男美女が、かしこまった風情で収まっている。そんな中に、唐突に清酒の瓶を抱えて微笑む美人画の広告が現れて、僕は滑稽さに少し笑った。しかし、不思議としっくりと馴染んでおり、この空間そのものが『古き良き時代』という標題を堂々と掲げているようだった。鼻先をくすぐる過去の残り香が、たちまち僕を別世界に放り込む。
 僕は上映を待って席につく。しんと静まりかえった映画館にいる観客は僕ひとりだった。
 やがて照明が落ち、映写機のからからという音が鳴る。闇に沈んでいたスクリーンが白々とした顔を晒し、映像という化粧を施されるのを待っている。やがて白と黒とその狭間、音のないの世界の扉が開く。
 不意に僕が背後を振り返ると、映写機の横に品の良い老紳士が立っていた。和服に二重廻りの外套を重ねた老爺は、被っていた山高帽を掲げて一礼すると、にっ、と笑った。



 そもそも僕が相島花天館を訪れたのは、近頃流行っているトーキーを見るためだった。アメリカだかドイツだか忘れたが、海外から入ってきた映画で、『ミモザの咲く丘』という題名だ。有名な論評が連なるキネマ旬報でも話題らしい、という級友の科白を受けて、ふと見てみても悪くはないかな、という考えが頭を擡げたのだ。僕の承諾を受けた級友は、ここぞとばかりに張り切って僕を案内した。この演劇狂いの級友は、常々僕を巻き込もうと狙っていたから尚更だ。
 映画館や劇場が建ち並び、人でごった返す道を抜け、やっとのことで辿りついてみればどうだ、肝心の『ミモザの咲く丘』はフィルムが切れたとかで上映はしない、と言う。代わりに上映していたのは日本の無声映画『君、白キ冬』だった。
 ポスターの左上にタイトルと共に主役らしき俳優、右下に二人の女優が遠近に並んでいる。手前の女優はおっとりとした下がり気味の眼に柔和な色を宿し、左上の男優に目線を送っている。それとは対照的に、奥の女優はまっすぐ、きりりとした眼差しで正面を見据えていた。その視線は他のポスターに描かれたどの女優よりも強く澄んでいて、つい覗き込んでしまいたくなるような、大きな黒い瞳をしていた。彼女は断髪に
帽子(クロッシェ)を被り、ぴたりと身体に沿う白いワンピースというモガ・スタイルを装い、つんと澄ました表情でそこに佇んでいる。
 監督は清川勲、脚本は桐島晃。あいにく、監督の名は知らないが、脚本の名は映画に明るくない僕でも知っている。大衆文学の第一人者と言っても良い作家だ。家族や級友からは低俗だ、と笑われているが、僕は新聞小説を読むのが好きなのだ。桐島晃の作品も勿論知っている。書生と良家の娘の恋愛を主眼にしながら、階級社会への皮肉を軽やかに織り込む作風が、妙に飄々としていて好きだった。だが、彼は断筆や休載が多く、なかなか完結しないのが難である。ともあれ、久々に見る桐島晃の名に釣られてポスターをじっくりと見ると、公開直後の新作であった。
 だが、級友は目当ての作品が見れないのでは意味がない、と肩をすくめた。
「二井山、つき合ってもらったのに悪かったな」
 元々、この級友のように映画が好きだというわけではない。首を振って、気にするなと応えた。
「『君、白キ冬』ねぇ……まあ桐島晃は有名だがな。おれは新派はあまり見ないんだよなあ……」
「新派って?」
 突然出てきた言葉に首を傾げると、級友はああ、と頭を掻き、
「演劇の種類のことだな。歌舞伎ほど庶民的でもなく、新劇ほど芸術的もなくって感じかな。人情物とか身分差とか……あ、尾崎紅葉とか、泉鏡花がよく脚本提供してるぜ。松竹とか東都キネマが良く作ってる」
 新派とは、歌舞伎の内容と諸外国の演劇とを比べた時、文明国たる日本にそぐわないのではないか、という批判の下に産まれた新しい演劇形式だという。大衆演劇として成功を収めた新派に目を付けた映画会社が、新派劇の脚本を用い、新派役者をスクリーンに登場させると忽ち話題を呼び、映画の本流を為したのだそうだ。一口に映画といっても、その方向性は制作会社や監督によって色々あるようだった。
 級友は放っておくとこの手の蘊蓄を長々と披露するのだが、正直なところ、退屈だったので聞き流していた。級友はさらに、新劇とは、歌舞伎とは、トーキーとは、と様々なことを掻い摘んで語ったが、上手く理解出来た気はしない。
「……ま、とりあえず」
 一通り語り終えて満足したのか、級友はぐるりと館内を見渡した。
「『ミモザ』が見れないなら仕方ない。帰るか」
「良いのか?」
 僕の科白に級友は驚いた顔をして、破顔した。
「ああ、うん。機会はまたあるしな。なあ、二井山。映画も悪くないが、舞台も良いぜ。何だったらこれから舞台見に行かないか?」
 言いながら映画館を出ようと背を向けた級友を、僕は呼び止めた。どうした、と怪訝そうな顔を浮かべる級友に、僕は言った。
「いや。良い。見ていこうと思う」
「そうか? 無声映画なんて時代遅れだぜ?」
「そもそも映画自体、あまり見ないものだし……」
 僕はポスターに目をやる。桐島晃がどんな脚本を書いたのか、少し興味があった。それより何より、白い服の女優が気になった。彼女の硬質な面立ちはどこか超然していて、人間のように見えなかった。この女は画面の中でどう動き、どういう表情を浮かべるのか、それを見てみたかった。
「……ま、気になるんだったら見ていけよ」
 級友は軽く笑い、じゃあな、と手を振って去っていった。僕は彼の背を見送って、入場料の五十銭を払う。もぎりの男が僕の出で立ちを見るなりにこやかに笑い、お座敷へどうぞと一階の客席を指し示した。劇場に入った僕の目に、真っ先に飛び込んできたのは緞帳の下りた舞台と、その真下、一段低いところにぽっかりとある狭い空間だった。そこには六、七人の楽士がひしめき、楽器を手にして弦を調整したり、音を合わせたりして、出番を待っていた。
 館内は中々立派なもので、見上げると二階にも席が設けられているのが見えた。所狭しと人が溢れ、喧噪が場内を満たしている。やがて時間になると西洋人の如きフロックコート姿の弁士が現れて、高説を振るった。
「さあさあ、本日お集まりの皆様がご覧じるは、二人の美しき娘に翻弄さる、とある男の物語にございます」
 独特の節回しで語り始めた弁士に向かって「いよっ! 待ってました!」という合いの手が飛び、拍手が湧いた。客層は働き盛りの男や、子連れの女、老人など様々だったが、一様に興奮した表情を浮かべていた。
 長々とした高説のはずなのに、小気味良く耳を打ち、分かりやすくも面白い。聞く者の心を捕らえる語り口に、これから始まる物語への期待が高まっていくのが分かる。
「――ではこれにて幕開けにございます」
 弁士の一礼と共に、再び場内に拍手が沸いた。幕が上がり、どこからかからからという音がする。ちらりと振り返ると映写機――という名称は後ほど知った――が、スクリーンを向いていた。なるほど、あの機械で映像を映し出すらしい。
 幕を開けた『君、白キ冬』は、舞台袖に控えた弁士が解説を挟みながら進んでいった。
 話の筋はこうだ。主人公の男・飯島は軽井沢に住む、さる高級官僚の屋敷に書生として転がり込んでいる。その家の主人には二人の娘がいるのだが、見た目も気性も正反対だった。
 飯島は初め、大人しい姉・春子に惹かれ、春子もまた飯島を良く思っていた。そこで話が纏まれば良かったのだが、突然この屋敷に戻ってきた活発な妹・千冬が、平穏だった二人の関係を混乱させてしまう。
 千冬――それが、僕の目に留まった女優の役柄だった。彼女はポスターと同じく断髪に帽子、白いワンピースを纏い、大荷物を持って登場する。
 ――君は、誰なんだ? 屋敷に踏み込んでくるなんて。
 ――あなたこそ誰なのです? 人様の家に堂々と転がり込んで、大きな顔をしている、あなたは?
 挑発的な物言いで千冬は切り返す。千冬は東京でタイピストを務める娘で、父親の言いつけも守らず、家を飛び出していたのだ。飯島は、この千冬を生意気だと断じるが、千冬は飯島の非難をものともしない。
 ――男に口答えすれば生意気だなんて、時代錯誤もいいところだわ。
 そんな千冬だから、飯島だけでなく、父親とも言い争いが絶えない。勝手に出て行って、勝手に戻ってきた娘に良い顔をしない。父娘の言い争いを止めるのは、春子の役目だ。
 ――千冬さん、お父様のお言葉ももっともだわ。外へ出るのも良いけれど、お父様のお気持ちも汲んで差し上げなさいな。
 ――春子お姉さまは、いつだってお優しいのね。でも私、春子お姉さまみたいに屋敷に閉じこもってばかりじゃ、嫌なの。
 フィルムの中で、春子は典型的な良妻賢母を体現し、千冬は颯爽とした『新しい女』を象徴していた。しきたりや慣習に屈せず、男の言い分を軽やかに躱す様には、嫌みがなく妙な愛嬌すらあった。
 春子はあまり表情を変えず、慎ましやかな風情を保つ反面、千冬は良く怒り、良く笑った。
 ――千冬さんを見ていると、その内女が鉄砲を持って戦争へ行きそうだね。
 ある時の飯島の科白に、あら、と千冬は目を煌めかせ、
 ――殿方が頼りなければ、そうなりましょうね。
 悪びれもしない態度は、飯島の心を騒がせ、千冬から目を離せなくなる。千冬もまた、叱りつけるだけの父親とは違う飯島の態度に惹かれていく。純粋で、一途な恋に目覚めていく様は、孵化したばかりの蝶の様だった。
 僕は、飯島と同じように、この千冬という女に圧倒されていた。今までに見たことのない、存在すら幻のようなこの女に。
 しかし、飯島は千冬に惹かれながらも、春子を妻として選ぶ。飯島を想う春子が、妹・千冬には東京に複数の恋人がいることを暴露してしまうのだ。流石の飯島も、これには嫌悪を示す。そして、飯島をひたすらに偲び、辛さに耐える春子こそ、自分に相応しい女だと言い聞かせる。
 ――今の私の心は冬のようですわ。背負う名の業でありましょうね。
 恋に破れた千冬は、あくまで明るくそう言ってのける。
 ――君が往く、白き冬には終わりがあるのか。もし君に終わりが見いだせないと言うのなら、僕が終わらせてあげよう。
 飯島はこんな時でも涙を見せぬ千冬をいじらしく思い、諦めきれずにいた。春子という女を得ながら、千冬にも情けをかけようという飯島に、千冬は笑う。
 ――飯島さん、酷いお方。
 千冬はそれだけを告げて、屋敷を去る。思い詰めたような表情を浮かべたまま、真っ白いコートに身を包んだ彼女が、雪の中へと走り去っていくラストシーンで、幕は閉じた。
 弁士の終了の挨拶など、耳に入らなかった。僕は幕が落ちた後も、ただ座り込んで、呼吸すら忘れていたほどだ。
 漸く大きな息を吐いて、級友が演劇の虜となった理由を、深く理解した。
 ――小志鳴永和。
 千冬を演じた女優の名を、僕は食い入るように見つめ、その姿を胸に刻んだ。

 それから、僕の映画館通いはほぼ日課と化した。学校に通うことすら億劫なほど、映画にのめり込んでいった。
 最初は、ただもう一度、小志鳴永和の姿を見たかっただけだった。『君、白キ冬』は、時間が許す限り見て、公開が終われば次の演目に彼女の名前がないかを探し、見つければ何度でも映画館に足を運んだ。大抵において、永和は脇役で、外見に見合った深窓の令嬢、没落した大名家の姫など、如何にも品のある大和撫子の役が多く『君、白キ冬』で見た時の鮮烈な印象とはほど遠かった。それでも尚、永和は僕を惹きつけた――特に、別れを惜しむ表情が一際、胸に刺さった。
 これは演技なのだと頭では分かっていても、永和は二度と会わぬ人を見送る時、心の底から、もう会えないのだと悟った顔をする。
 だからなのか知らないが、永和は常に悲劇の最中にいて、救いようのない結末を迎える。一度など、誰かが本気で嘆いているのを聞いた。この娘に幸せはやってくるのか、と。
 その嘆きを、僕も理解出来た。いくら似合いの役柄だからといって、薄幸の美少女役ばかりではあんまりだ。そして、ふとした瞬間に、こうも思うようになった。小志鳴永和という女優には、悲劇の役柄を引き寄せる何かがあるのではないかと。憂いなく笑う仮面を剥いだ時、そこに見える表情は、どんなものだろうか――と。
「……おい、こんなところでさぼってるとは、良いご身分だなぁ、灯一坊ちゃま」
「!?」
 僕の物思いを無理矢理断ち切ったのは、ぱかん、と軽い音と衝撃。それらを頭に受けて、僕は慌てて身を起こした。きょろきょろと見回すと、背後に立っていたひょろりとした長身の男が目に入った。ベレー帽を斜めに被り、よれたシャツにズボン姿という出で立ちは、ともすれば見窄らしいものだが、この人にかかると高尚な芸術家のように見えてしまうのが不思議なところだ。細く尖った顎と、こけ気味の頬には無精髭が散っている。見覚えのある顔に、僕は目を見開いた。
「えっ? あっ? 岩見さん!?」
「よう、二井山。元気だったか……って、聞くまでもないか」
 苦笑気味に岩見さんは言い、丸めていた台本を元に戻していた。
「お久しぶりです。でも、なんで岩見さんがここに?」
 僕の問いかけに、彼はああ、と笑った。
「今度、清川監督が俺の脚本が採用してくれるってんでさ。そんで監督に挨拶に来たところ」
「本当ですか!? おめでとうございます!」
 岩見さんとの出会いは映画とほぼ同時期の昭和四年、僕が十九歳の冬だった。岩見さんは早稲田大学の仏文科に在籍しながら、脚本作りを学ぶために清川勲監督の元に食客として出入りしていた。彼はこの春に長い学生生活を終えたばかりだが、その間に学生有志の自主制作映画や、舞台の脚本を何百と手がけていたと聞く。漸くその努力が結実したことになる。
 僕が今、映画制作会社の清川キネマスタジオにいられるのも、岩見さんの手引きがあったからだった。兄弟のいない僕にとって、岩見さんは兄とも呼べる存在だった。
「お前は、役者を諦めたんだって?」
 岩見さんはそう問いながら、緑灰色のパッケージから煙草を取り出し、慣れた手で火をつける。岩見さんと目が合うと、彼は「吸うか?」と差し出してきたので、僕は有り難く一本拝領する。投げて寄越された燐寸の箱を確かめる振りをして、そっと岩見さんから視線を外した。
「……監督に素養なし、と断言されましたから」
 僕の返答に、岩見さんはふっと笑う。吐き出した煙は甘い香りと共に広がって、複雑な斑紋を描く。僕もまた煙草に火を付け、葉を吸い込まぬようにゆっくりと煙を味わった。この業界に入ってから覚えた煙草の味は、当初はきつくて到底馴れるものではない、と思っていたのに、いつの間にか、なければ気になる様になっていた。
「清川さんは大抵そう言う。俺だって何千回と言われたさ」
 言外に、もう一度挑戦しろ、と僕の背中を押してくれていることが分かったが、首を振った。
「いえ、いいんです。僕はスクリーンの中にいるより、それを支える方が興味あります」
 清川勲――僕が人生で最初に見た無声映画『君、白キ冬』を撮影した映画監督だ。彼はエキストラの大半をロケ地周辺の住人やスタッフに任せている。そんなところにまで役者を使えるほど、資金が有り余ってはいないし、より写実的な作品を目指す清川監督の意向でもあった。そういうこともあって、僕も何度か画面に映ったことがある。演技をしろと求められたことはなかったが、出来上がった画を見て監督に一言、『お前は映るべきやない』と断言されてしまった。
 映画の世界に憧れ、スクリーンの中の華やかさの一部になれれば、という、僕の思い上がった夢想はあっさりと打ち砕かれた。清川監督の言葉を待つまでもなく、自分自身でそれを悟った。上手く言えないが、僕の姿はフィルムに馴染めていなかった。
 それでも映画の世界からは離れたくなくて、端っこにしがみついたまま四年が過ぎた。
「灯一坊ちゃんは諦めが早くていかんな」
 呆れて、岩見さんは西洋人役者がするように両手を掲げた。済みません、と頭を下げると、また丸めた台本で頭を叩かれた。
「別に謝るようなことじゃないだろ。人生見極めも肝心だよ」
 はい、と頷くと、岩見さんも微笑む。だが、すぐさまその表情に、苦いものが混ざった。
「ま、脚本が出来たといっても、また検閲で滅茶苦茶になるだろうけどな」
 映画のフィルムには細部まで検閲の鋏が入れられ、内務省の検閲済の検印なしには興行として公開することは出来ない。内容を大幅に削った不自然な流れのまま、スクリーンに映し出すより他なく、今回の脚本も、完成したところで映画として成り立つかどうか。清川監督は、検閲に抵触するような作品は少ないはずだが、どこが検閲官の癇に障るか分からない。
「全く。何もかもお上の采配じゃ、映画は死んじまう。そう思わないか?」
「そうですね……」
 僕は同意を示し、岩見さんの吐き出した煙の行方を、何とはなしに目で辿った。
 日本の情勢はさほど良くはない。今から十五年前に終結した欧州大戦では、その被害甚大さに厭戦感が生まれたのに対し、日本はイギリスとの同盟の元に参戦、支那の権益を得て景気に湧いたものだった――が、それは泡沫の夢でしかなかった。
 五年後には関東大震災、続いて金融不安からの取り付け騒ぎ、止めと言わんばかりに、昨年アメリカの株の大暴落が起こり、忽ち世界中が恐慌に陥った。当然、日本にも波及している。
 苦しい生活を余儀なくされている、主に労働者・失業者たちの鬱憤は、政府に向かった。奇しくも、欧州製大戦終結間近に起きたレーニン主導のロシア革命が成功し、ソ連が樹立。レーニンらを支えたマルクス主義――平等と人権を獲得し、理想の世を手に入れることを夢見る社会主義思想が、日本でも活発に謳われ出した頃だ。元よりマルクス主義を信奉する知識人たちを中心に、非合法ながら共産党を結党、その実質的な傘下である合法団体・労働農民党からは議員を輩出するまでに至っている。
 搾取に喘ぐ労働者や党関係者などが、理想の達成を阻む権力との闘争と称し、軍部や皇室を批判、官憲に対する暴動も各地で噴出していた。軍部もアカ思想の撲滅を掲げ、党員の一斉検挙を行うなど、やや強引な手段も取られている。規制は厳しくなる一方であり、全国の警察に特別高等課が設けられたのが、その証左とも言えた。
 この世情は映画界にも反映していた。監督の中には、作品を通してはっきりと体制批判を為し、思想犯として捕まった者も多かった。
「清川さんは賢いから、危険な橋を渡るような人じゃないがね。……でも時々悔しくはなる」
 僕は何と答えたら良いか分からずに、ただ煙を吐き出し、沈黙を守った。以前は、ただ華やかで憂きを離れた夢幻の世界に、埋没しているだけで良かった。内側に入って漸く、夢幻を描くことすら難しい状況になっていると知った。だが、小さな独立プロの、一スタッフでしかない僕が何を変えられるというのだろう。
 岩見さんの言動には、時折強い鬱屈を感じる。閉塞と焦燥、時代に膿んでいることを誤魔化すように、常に新しいものを追いかけている風だった。軍部に触れず逆らわずの清川監督の姿勢は、岩見さんの目にはどう見えているのだろうか。
「さ、そろそろ休憩も終了だ」
 重さを取り払った口調で岩見さんが告げる。それを合図に、僕は煙草の火を揉み消し、立ち上がった。

 清川キネマスタジオは向島區の相島駅から十数分、隅田川沿いの道を一本折れたところにある小さな撮影所だ。その名の通り、元々は清川勲監督の個人出資で設立したプロダクションである。近辺に映画館や劇場が点在するだけでなく、日活の撮影所もあり、出会う人間は演劇人であることが多い。あちこちに演目の描かれた幟が上がり、ポスターやビラが壁や電柱にひしめき合う。華やかな衣装の女優や俳優陣が颯爽と闊歩し、時には撮影することもあった。映画の世界がそのまま現実に存在しているのが、今でも何やら不思議な気がする。
 僕は十九の時にこの世界に足を踏み入れた。映画に惹かれた、というよりは、最初に見た小志鳴永和の幻影を追っていた、という方が正しいだろう。家族は映画に関わることを僕に禁じたが、その制止は意味を成さず、殆ど衝動的に家を飛び出していた。
 当初は、級友の元に転がり込んでいたが、ほとぼりが冷めると、肝心の映画界への足がかりは全くないことに思い至った。
 ――二井山、お前は馬鹿なのか大物なのか、どっちだ?
 さすがに級友も呆れたように言い放ったが、彼には既に舞台や映画を語る仲間がおり、その人脈を辿って行き着いた人物が、岩見さんだった。
「映画のために飛び出してきた馬鹿がいるって聞いてさ」
 今と同じくベレー帽に煙草をくわえた姿で、相島の薄暗いカフェーを訪れた彼は、開口一番にそう言って、岩見了と名乗った。
「俺はそういう一途な馬鹿が嫌いじゃない。んで、映画の何が良い?」
 問われて、僕は一瞬寒気を覚えた。岩見さんの口調は軽く、何気ない風ではあったが、瞳の色には真剣さを含んでいた。ここで下手な答えを返せば、僕の道は閉ざされると思った。
「力があると思いました」
 するりと出てきたのは、そんな答えだった。岩見さんは、ほう、と相槌を打つ。こちらに続きを促していた。
「嘘のはずなのに、偽物のはずなのに……いや、だからこそ、真実が純化され、凝縮されているのではないかと感じるからです。今までとは全く違う別の世界、人生、物語に触れる新鮮さも勿論ありますが……」
「なるほどな」
 岩見さんはふと表情を緩め、立ち上がった。
「お前、名前は?」
「……二井山灯一です」
「二井山、な。また明日、ここに来ると良い」
 その言葉に従って、翌日岩見さんと落ち合うと、そのまま清川監督の元まで連れて行かれた。
 四十がらみの監督は大柄で、ロイド眼鏡の奥の小さな瞳をこちらに向けた。その眼光は鋭く、固く結ばれた口元が如何にも気難しそうだった。更にあの『君、白キ冬』を撮ったと聞いて緊張している僕を尻目に、岩見さんは朗らかに話しかけた。
「昨日お話しました二井山君です。ほら、挨拶」
「は、初めまして。二井山灯一と申します」
 名乗った瞬間、清川監督が不機嫌そうに目を細めた。僕は反射的にたじろぎそうになったが、なんとか堪えた。文句の一つも言われそうな雰囲気だったが、彼はさっと僕から目線を外すと、岩見さんを睨め付けた。
「了、厄介なもんを連れてくるんやない」
 飛び出てきたのは馴染みのない関西訛りで、想像通りの低く迫力のある声だった。岩見さんは動じることなく、飄々と笑うだけだった。
「厄介だなんて、二井山君に失礼ですよ監督」
「食客はお前一人でいっぱいいっぱいや言うてたやろ。それにこんな……」
 僕を見据えたまま、清川監督は口をもごもごさせていたが、やがて、特大の溜息をついた。畳みかけるように、岩見さんは続ける。
「二井山君は映画が好きなんですよ。きっと、力になってくれます。なあ?」
 どんっと、意外と強い力で背中を岩見さんに押され、僕は慌ててはい、と応えた。
 それに対し、清川監督はどれほど沈黙したのか。痛いほどの緊張を強いられた僕には、永遠のように感じた。
「……分かった」
 え、と戸惑う僕に対し、岩見さんは相変わらず笑っていた。
「やっぱり、監督は話が分かる方です。お任せしましたよ」
 ただ両者の顔を見比べるしかない僕を放って、話を纏める岩見さんに、清川監督が口を開く。
「火遊びも程々にせぇよ」
 すると、岩見さんはゆっくりと目を細めた。
「監督、骨は拾って下さいますよね?」
「冗談やない。骨が残ってたって拾うてやらんわ」
「はは、つれないですね」
 二人のやりとりに呆気に取られていると、岩見さんに肩を叩かれた。そのままあっさりと背を向けた彼を追うわけにも行かず、かと言って、ここに残っても良いものか逡巡していたら、おい、と乱雑に呼ばわれ、居住まいを正す。
「にやま? みやまか」
「二井山です」
「まあどうでもええわ。神田にえいわ荘ってあんねん。そこへ行け」
「はあ……」
 唐突に、住所を書いた紙切れを渡され、言われるがままに足を向けると、そこにはアパートが建っていた。恐る恐る訪ねると大家らしき老婆が出てきて、「清川さんのご紹介の方ですね」と微笑み、二階の部屋へ連れて行かれた。
「あの、どういう……?」
 弁士の解説なしに展開していく無声映画を見ているようだった。僕が老婆に声をかけると、彼女はきょとんと目を見開いた。
「岩見さんが出て行くから、代わりに店子さん紹介します、って清川さんがおっしゃってたんですけどねぇ。違いました?」
「いや……僕もよく分からないんですが……」
 老婆は笑った。
「岩見さんも、初めて来たときそんな顔してましたわ。ここへ行けとおっしゃったんでしたらまあ、大丈夫ですよ」
 そんなものなのだろうか。釈然としないながらも、こうして僕は清川監督の元で世話になることになった。
 翌昭和五年には僕は役者の道を断念し、その二年後には清川キネマスタジオが経営難で倒産の危機に陥った。それを救ってくれたのが東都キネマだった。資金難からトーキーに移行出来ずにいた清川キネマと、大手の日活・松竹を追う新興映画会社である東都キネマの、新進気鋭の監督が欲しい、という利害が一致したのである。ほどなくして、清川キネマは東都キネマ作品の制作を下請けする形で存続が決まった。撮影所の場所に変更はなく、人員も据え置かれるどころか逆に増え、新しい幕を切って落としたのは昭和八年三月だ。早速、清川監督は東都キネマの依頼を受けて新作を撮影することと相成った。
「君が噂の二井山君?」
 舞台資材を作業場に運び込んでいると、突然声をかけられた。僕が振り向くと、すらりとした長身の男がいた。その存在感は際だっており、ただのスタッフでないことは明らかだった。恐らくは役者だろう、高そうな背広が嫌味無く似合っていて、明らかに着慣れている。すっきりと整った顔立ちは女形を務める歌舞伎役者のようだ。年の頃は僕より二、三年上だろうか。
「噂……ですか?」
 この男が何者かより、そっちの方が気になった。ここにやってくるまでの経緯が噂になるほど、僕は特殊な経歴の持ち主ではない。
「男爵家の嫡子が着の身着のまま清川監督の元に来た、って。君のことじゃないのか?」
 僕の顔が、俄に堅くなった。すると、彼は慌てて手を振った。
「別に咎めようとしたわけじゃない」
「ありがとうございます。……でももう、関係のない場所ですから」
 僕の生家である二井山家は、男爵位を持っている。当主である祖父は政府の官僚を勤め上げてきた人物で、映画は元より演劇の存在そのものを認めてはいない。より強固に取り締まり、摘発すべきという考えを、頑なに持ち続けていた人間だった。
 映画など、アカの不貞連中を生み出す温床でしかない、というのが祖父の主張だが、決して全体がそうではない。国策映画を意欲的に発表する監督も少なからずいたし、軍部批判とも国威発揚とも関係のない作品も多い。しかし、祖父は僕の言を端から聞き入れる気がなく、映画に傾倒してゆく僕を、誰よりも厳しく非難した。
 僕の生まれが男爵家であることは、直ぐに知れた――それほどまで二井山の名が知られていたのだと、気付いていなかった僕の落ち度とも言える。思えば、二井山という苗字はどこにでもあるようなものではない――ため、最初は周囲の人間からあまり良い顔はされなかった。
 はっきりと、官憲のスパイか、と詰られたことすらある。いちいち訂正を入れることが億劫になり、疑いの目は無視してひたすら目の前の作業に打ち込むよう過ごして四年目。漸く二井山家とは関係ないと分かったのか、騒々しさが薄れたところだ。
「気を悪くしたのなら済まない。俺は寧ろ、君の行動に感心してるくらいさ。あ、そういや初めてだよな。俺は百田時也だ」
 整った顔立ちに相応しい爽やかな笑顔を浮かべて、百田氏は手を差し出してきた。どうも、と圧倒されながら僕が応えると、強引に握りしめられる。良い意味で相手の都合を考慮しない立ち振る舞いは、人から衆目を浴びることに慣れた者のそれだった。
「感心……ですか? 考えなしとは良く言われますが」
「いいじゃないか、考えなし! 若くないと出来ないよ」
 そう言う百田氏も十分若く見えるのだが、僕が思うよりも歳を重ねているのだろうか。役者の年齢は判別し難い。
「百田さん、姿を見ないと思ったらこんなところにいたのか」
 僕たちが声の主を確認すると、岩見さんだった。
「ちょっと気になってね。岩見が珍しく他人の世話を焼いたっていうから」
「それじゃあ、俺が冷たい人間みたいに聞こえるじゃないか」
「事実として、岩見はあまり優しくない」
 ひどいな、と岩見さんが苦笑する。二人の間には親密な空気が流れ、長い付き合いがあるのだと知れた。全く共通点のないように見える二人が友人とは、世間は狭い。
「時間なっても集まらん思うたら、何やっとるんやお前らは」
 清川監督の低く、錆びた声が割り込ん出来て、僕は慌てて彼に頭を下げた。岩見さんと百田氏も僕に倣った。
「清川監督、お久しぶりです」
 百田氏の挨拶に、清川監督はおう、ぶっきらぼうに返したかと思うと、おい、と背後に向かって声をかけた。それで初めて、小柄な人影があることに気付いた。がっしりとした体格の監督の陰になっていて、僕の位置からはよく見えなかったのだ。
「変則的やけど顔合わせ済ませよか。こっちが百田時也氏や」
「初めまして」
 聞こえて来たのは、場違いなほど涼やかな女の声だった。確かめようと立ち位置をずらした僕の目に、白い手をきっちりと揃えて、頭を下げている姿が映った。礼を終えて上体を起こした彼女は月草色の地に、アールヌーヴォー調の菖蒲が描かれた銘仙、淡い翡翠の小鳥と芙蓉の昼夜帯を合わせている。やや緊張した女の顔には、嫌というほど見覚えがあり、僕は内心あっと叫んだ。
「小志鳴永和と申します。よろしくお願いいたします、百田さん」
 それは、忘れもしない昭和八年の、五月も初めのこと。僕は銀幕の夢が現実に転がり落ちてきたのを、目の当たりにしたのだった。

 小志鳴永和が間近にいて、動き、喋っている。
 打ち合わせにやってきた彼女は、台本を手にして監督の指示を仰ぎ、時折何かを書き込んでいた。当たり前といえば当たり前の光景に、僕はまだ信じられないでいた。もし、この業界にいればいつかはその姿を見ることはあるかもしれない、という期待がなかったと言えば嘘になる。だが、こんなに早く実現するとも思っていなかった。
 清川監督は写実的な画を得意とする作風で、使う役者も無名であることが殆どだ。小志鳴永和は主演こそ初めてだったが、脇の重要な配役に起用されていることが多く、近頃の映画論評の中で注目を集めている。百田氏は百田氏で、月地小劇場で人気のある舞台役者で、映画の出演は初めてだという。
 既に固定ファンのついている役者を使うこと自体、清川監督の嗜好からは外れていた。
「そりゃ、東都キネマの意向さ。画面が華やかな方が見栄えすんだろ?」
 とは岩見さんの言だ。東都キネマに救われた以上、清川監督も反論しにくかったのだろう。僕はそう判断し、ひとり頷く。
「小志鳴永和が気になるか?」
「えっ?」
 僕は思わず手にした巻き尺を取り落としそうになった。岩見さんのほうを確かめると、彼はくわえた煙草を上下させて、にやにやと笑っていた。明らかに、僕をからかおうとする意図が見えた。
「別に、そんなことはないですよ」
 図面に目を落として、話を逸らしたが、くつくつと忍び笑いが聞こえるだけだった。
「二井山、お前は正直者だよ」
 ……そんなにわかりやすいのか? 反論しても否定しても、彼は取り合わないだろうから、僕は押し黙るしかなかった。
「別に構わないぜ? 小志鳴永和は美人だ。演技も上手い。人当たりも良いから、他人を不快にしない。実際、共演者や監督の評判はすこぶる良い」
「完璧ですね」
 業界で嫌われては長生き出来る役者などいない。僕の相槌に、岩見さんも同意する。
「そう、完璧すぎる。……だから、怖い」
「怖い?」
 声を低めて囁かれた言葉は、小志鳴永和を形容するのに、相応しい言葉ではないように思えて、僕は岩見さんを見つめた。彼はいつも通り飄然としていて、掴み所がなかった。殆ど変化のない笑顔が、岩見さんの本心を覆い隠していた。
「ああ、そういや、清川監督の愛人、とかいう噂があったな」
「えっ!? 本当ですかそれ」
「そりゃあ、小志鳴女史当人に確かめてみな」
「無理ですって」
 こっちは使い走りの雑用係――一応大道具という名目ではあったが、照明や音響など人手の足りないところに呼ばれて駆り出され、最早何でも屋扱いだ。対して、向こうは高嶺の花の銀幕スターである。直接口を利ける立場ではない。
「当たって砕けるのも青春だよ、お坊ちゃん」
「その呼び方やめてくれませんか。単に楽しんでるだけでしょう、岩見さん」
「勿論。他人の恋路ほど眺めてて楽しいものはないね」
「恋路って……」
 憧れはあるが、それが即ち恋情なのか、と問われればきっと違うだろう。そもそも、僕は銀幕で動く彼女しか知らないのだから。僕は軽く息を吐き、ちらりと岩見さんに非難の目を向けた。
「仕事の邪魔ですよ、岩見さん」
「おっと、俺は脚本家様だぜ?」
「筋は書けても舞台作りは出来ないでしょうに」
「言うようになったなあ」
 そこへちょうど、岩見さんに監督から声がかかったので、ひとまずそこで話は終わった。
 僕の主な仕事は先述したように、舞台のセットを組むことである。清川監督と古い付き合いだという元・大工の男を筆頭に、僕を含め五名のスタッフがいる。大がかりな物以外であれば必要に応じて、撮影現場で作ることもあった。
 新作はカフェーの女給と文学青年との身分差の恋、という新派風の物語である。映画の撮影期間は約四十日。この作品の撮影は都内近郊で済ますらしいので、あるいはもう少し早く上がるかもしれない。
 清川監督にとっては初めてのトーキー映画で、同時期の監督の中では切り替えの遅い方だった。無声映画に拘りがあってまだトーキーへの移行に慎重だ、資金調たちが困難で設備がない、あるいは人気弁士の意向に配慮して、などとという事情はあるにしろ、無声映画の時代は終焉に近づいていた。
「よーい!」
 澄み渡った五月の空の下、清川監督の声がかかる。カチンコの小気味良い音と共に、夢幻の世界の扉が開かれる。この瞬間が訪れる度に、僕の胸は踊った。この時を共にしているだけで、構わない。例え隅の方であっても、映画に関われることを誇りに思った。

 撮影も順調に進んでいた、ある日のこと。珍しく機嫌の良い清川監督に声をかけられ、岩見さんと共に付き合っていたら、終電車の時刻近くになってしまった。
 その日は月の明るい夜で、吹く風も清々しかった。酒が入っていることもあって、何とはなしに足取りも浮つく。
 相島駅へ向かう道筋の途中には繁華街があり、月の明かりに対抗するように、地上にも猥雑な灯りの花が咲いた。周辺の治安は、お世辞にも良いとは言えない。やや着物を崩している女の婀娜っぽい姿が目立ち、通りを行き交う男たちをその色香で誘い込む。ここを通る度、丈の合わない服を着るような居心地の悪さはあるものの、覚えのある空気の中に、ぽつんと浮き出た気配があった。水の中に一滴こぼれた油のように、明らかな異質の存在が。
「――を、ご存じありませんか?」
 僕の耳に聞こえて来た声と、立ち姿に間違いはない。永和だった。彼女は胡乱げな男に向かって何かを尋ねていた。酒が入って、ややふらついている男は、永和の問いに大雑把に手を振る。
「いや、聞いたことねえなあ」
「そうですか……引き留めて申し訳ありません」
 常と同じく品のある態度で礼を述べた彼女の手を、男が乱暴に掴むのが見えた。
「おれは知らないが、知ってるやつがいるかもしれねえ。すぐそこにいるからよ、ついてきなよ」
「いえ……お手を煩わすわけには参りませんから」
 口調こそ穏やかだったが、彼女の表情は堅くなった。白い顔に僅かに浮かんだ怯えの色に、男は拘らず――あるいは、気付いていてもどうにかなると思っているのか――、肩に手を回した。
「まあまあ、堅いこと言わずに」
「でも……」
 言い淀んだ彼女に逃げ出す隙を与えまいと、肩に力を込めたと見えた瞬間に、僕は漸く硬直が解けた。
「永和、子さん!」
 流石に芸名はまずいか、と適当な偽名で呼びかけると、永和が弾かれたようにこちらを向いた。
「こんな時間に何をやってるんですか?」
 その疑問は本音だったので、思ったよりも自然に問うことが出来た。
「え……」
 戸惑ったような彼女の元まで近づくと、男に向かって僕は頭を下げた。
「済みません、妹が何か失礼でも?」
「えっ、いやあ、ちょっと道を訊かれただけでして」
 ぱっと手を肩から離したのを見て、内心息をついた。ここで粘られると厄介なことになるところだった。僕は永和に目を向ける。彼女の元々大きな瞳が瞠り、この状況に戸惑っている様に見えた。
「家の者が皆、心配していましたよ。帰りましょう」
「……はい、分かりました……」
 それからもう一度男に向かって頭を下げて、不自然にならないよう、急く気持ちを抑えてなるべくゆっくりと歩き始めた。
 毒々しい色の灯りと喧噪が遠のき、夜の静けさが訪れるのと同じくして、自分の鼓動の音が競り勝ってきた。大きく息を吐いて、額に浮かんだ汗を拭った。自覚していたよりも緊張していたことに気付いて苦笑する。
「演技の才がないなんて、どなたが仰ったんです? 二井山さん」
「えっ!?」
 僕の驚愕の声は思ったよりも大きく響いてしまい、思わず口を手で塞いだ。すると、隣を歩く永和がくすくすと笑った。
「なんで……」
 僕のことを? その疑問をみなまで口にせずとも、彼女に伝わったようだった。
「同じ現場にいる人間の顔と名前くらい、知っていて当たり前じゃありませんか。映画も舞台も、決して役者だけでは出来ませんもの」
「そう……ですね……」
 彼女の明瞭な回答に、僕は曖昧に返答をする。まだ、彼女の口から自分の名がこぼれ落ちたことを信じられないでいた。
「二井山さんには、百田さんも感心してらしたもの。お家を出てまで好きな道を選ぶなんて勇気があるって」
「褒められるほど、立派な信念があって出た訳じゃないです」
「では、どんな理由で?」
 小首を傾げながらの問いかけに、僕は押し黙った。まさか、あなたに憧れたから、などという理由を語ったところで、彼女が信じるとは思えない。口先だけの世辞だと受け止められて終わりだろう。
 そう、僕は彼女に憧れてこの世界にやってきた。そして、奇跡的な確率で、余人を挟まず相対し、言葉を交わしているというのに、全く現実味がなかった。まるで――こういう言葉が陳腐であることは承知で言うならば、ずっと昔から側にいたかのようだ。
「……小志鳴さんは、どんな理由で?」
 結局、僕は彼女の問いをはぐらかすことにした。映画関係者の中には、僕みたいに自ら選んで来た者もいれば、まっとうな職にありつけず転がり込んで来た者もいる。互いの過去にはあまり触れない方が賢明だ、ということはこの四年で学んでいた。僕より長くこの世界にいる彼女ならば、これだけで通じるはずだった。暗黙の了解を成立させようとしていることに。
 永和は、笑った。提案を受け入れた合図だと思った。だが――
「それ以外、生きる道がなかったから」
 飛び込んできた科白は、僕の予想外のものだった。再び、彼女は笑った。
「別に、隠しているわけではないんですよ。……母は元々芸者だったんですけど、身を持ち崩してしまって。清川さんに出会ってなければ、今頃、母と同じ道を歩んでたでしょうね」
 隠すつもりはない、というのは本当らしく、七歳の時に出会った清川監督の紹介で、新派演劇で人気を集める吹鳴座の座長・吹上鳴成氏の元に弟子入りし、十歳で初舞台を踏んだ、と淡々と語り始めたのだった。
「それから、十六歳で初めて映画に出たんです」
「『君、白キ冬』」
「ご存じなのですか?」
 ええまあ、と誤魔化すと彼女は懐かしそうに目を細めた。
「初めてのことばかりで緊張していましたから、ちゃんと演技出来ていたのか、何度も監督に確認したものです」
「とてもそうは見えませんでした。千冬を演じていたのが十六歳の少女だと今訊いても、信じられませんよ。型破りで我が儘で、でも凛として愛らしかった。主人公が羨ましいくらいに」
 そこまで喋って、慌てて口を閉ざした。永和がじっとこちらを見ていたからだ。僕は視線を合わせられずに前を向いた。
「あの作品は公開期間が短くて、残念でした」
「……ありがとうございます。私も、そう思います」
「それで、今日は何故あんなところへ一人で?」
「母を捜していたんです」
 彼女の答えは簡潔だった。
「東京で震災が起きた時、吹鳴座は巡業で京都にいたんです。東京に戻ってから心当たりを当たっているのですけれど……」
 十年前、関東一帯を襲った大地震で、東京という都市は一瞬にして灰燼に帰した。立ち並んでいた建物という建物がただの瓦礫と化し、視界を邪魔するものがなくなった姿は、ここに日本第一の都市があったのは何かの幻想だったのか、と疑うほどだった。今ではすっかり元の姿を取り戻していることは、多くの人間の希望に繋がった反面、彼女のように、未だ悪夢の続きに苛まれている人間もまた、無視出来ぬほど多い。
 僕は口を開きかけて、躊躇った。彼女にとっては酷かもしれないが、これだけ探してもいないのなら、もう……。
「諦める時期に来ているのかもしれません」
 僕が口にしなかった言葉を、彼女が聞き取ったかのようだった。いや、もしかすると、彼女の胸の内にも日毎その想いが積み重なっていたのかもしれない。
「さっきの理由ですけれど」
 相島の駅舎の影が見えた頃、永和が沈黙を破った。
「もし私が舞台に立ち続けていれば、いつかきっと気付いてくれるのではないか、と」
 夢見ていたんです、と微笑んだ顔は彼女が映画の中で見せた、別れの表情に似ていた。季節まだ初夏だと言うのに、彼女の周囲に静かに漂うのは冬の気配だった。画面すべてを真白に染め上げんとする雪の中、遠く揺らめく黒い木立の影。夜の底へと走り去る千冬の後ろ姿――その幻視が重なって、なかなか消えてくれなかった。
「お母様の名前はなんと?」
 別れ際、僕が問うと彼女は首を傾げた。
「何かお手伝い出来るかもしれません」
「お気になさらないで。二井山さんのお手を煩わせるために、お話したんじゃありませんもの」
「僕の我が儘ですよ。貴女の力になりたいんです」
 彼女は逡巡し、断りの言葉を探しているように見えた。
「……『君が往く、白き冬には終わりがあるのか。もし君に終わりが見いだせないと言うのなら』」
「『僕が終わらせてあげよう』」
 僕の後を引き取った永和が、本当にお好きなんですね、と確かめるように呟いた。永和は暫く沈黙し、駅舎に灯る明かりをじっと見つめた。その真剣な横顔に、僕は思わず見惚れた。そして、徐に顔をこちらへ向けた。
「……内海、という名に聞き覚えはありませんか?」
「内海?」
 僕は首を傾げた。唐突に聞き覚えのない名前を聞かされて、戸惑いつつも否定した。
「私は父親の顔を知らなくて……商売が商売ですから。それに母は一切父のことを語ってはくれませんでしたし。でも、私が京都にいるときに、母から手紙を貰ったんです。もし困ったことがあったら、人形町のえいわ荘にいる内海さんに相談しなさい、という」
「その内海という人物が、父親だと?」
「かもしれない、と。最初はこの内海さんに母の行方を尋ねるつもりでしたが、住所が変わっていて……」
 僕は偶然の一致に、数度目を瞬いた。
「僕が住んでいるのはえいわ荘というところですよ」
 場所は人形町から離れているが、同じ名前のアパートである。あるいはただの偶然かもしれないが、移動した可能性もある。
「大家さんは長い間変わってないようですから、一度訊いてみます」
 ぱっと彼女の顔が明るくなった。
「よろしくお願いします」
 彼女と別れ、えいわ荘に着いて早々に内海という人物の所在について尋ねると、大家は暫く考えてから、ああ、と溜息に似た返答があった。その表情を見るだに、芳しい情報ではないようだった。
「内海さんね。あの人は死んだよ。真面目そうに見えたけど、どうも妙な連中とつるんでてね、そりゃ酷い死に方だったって」
 そこまで言って、ふと老婆は首を傾げた。
「確か、岩見さんとも面識があるはずですよ。訊いてみると良いんじゃありませんか?」

 映画の撮影も、折り返しに差し掛かった。その間、永和との接触も増えるようになったが、内海なる人物の死を告げるか否かを迷っていた。
 彼女の希望を潰すような真似は躊躇われたが、それは、却って傷つけることになるのかもしれない。三年前、内海は何らかの事件に巻き込まれ、遺体の顔を潰された状態で見つかったらしい。かろうじて服装と所持品、身体的特徴から内海本人だと断定されたが、何が原因で揉めたのか、誰と揉めたのか、警察の捜査がその後どの様に展開したのか、については流石の大家も知らなかった。
「辛気くさい顔をしてるなあ、二井山君よ」
 久々に撮影所を訪れた岩見さんはそう僕に声をかけた。
「あの……後でお聞きしたいことがあるんですけど、良いですか?」
「ああ、良いよ。俺も丁度、二井山に話があるんだ」
 仕事が捌けた後、僕と岩見さんは市電を乗り継ぎ、月地に向かった。とあるカフェーに足を向けると、そこには百田氏の姿もあった。彼は紺絣の着流しに下駄という格好で、きっちりとした背広姿しか知らない僕はそのしどけなさに驚いた。百田氏は懐手していた右手を挙げ、気にするな、という風に軽く振る。気怠げな動作さえも様になり、男の僕でもどきりとするほど艶めいていた。手短に挨拶を済ませると、岩見さんが口を開いた。
「それで訊きたいことって?」
「岩見さんは内海、という方をご存じですか?」
「内海……ああ、昔隣に住んでいた男がそういう名前だったかな」
「その方がどういう人だったか、知りませんか?」
 僕の問いかけに岩見さんは視線を外し、いや、と首を振った。
「よく知らないな」
 その声は心なしか堅く、いつも浮かべている笑みも消え去っていた。百田氏がその岩見さんの様子を見て、口を開く。
「君は、どこでその名前を知ったんだ?」
「小志鳴さんからですが」
 僕の返答に、二人はちらりと視線を交わした。渋い顔をしていたが、やがて百田氏が身を乗り出し、卓上で手を組んだ。
「二井山、これは忠告だが――小志鳴永和とはあまり関わらない方がいい」
「……どういう意味です?」
「彼女は所謂、曰く付きって奴だ」
 百田氏の後を、岩見さんが引き取って続けた。
「彼女と関わると破滅する、ってな。清川さんの作品は公開一週間で打ち切られた。それだけでなく古巣の吹鳴座は、吹上氏が自殺してからさっぱりだ。彼女の周りで死んだ人間は三人もいる」
「偶然じゃありませんか?」
 気を付けたつもりだったが、僕の声には棘が含まれていた。百田氏が肩をすくめ、申し訳なさそうな表情をした。どこか作り物っぽく見えるのは気のせいだろうか。
「だとしてもだ。そういう験の悪い人間は避けられるものさ」
「百田さん、彼女に失礼じゃありませんか」
「承知の上さ。……でも清川さんの現状は無視出来ない」
「次の作品が売れなきゃ、東都キネマから信頼を失う」
 これは岩見さんの科白だった。
「清川さんは随分肩入れしてるがね。おれは彼女を切るべきだと言ったよ」
 僕は押し黙った。怒りを抑えるためには、そうするしかなかった。
 勿論、二人の言いたいことは理解出来る。永和は誰とも衝突しない代わりに、特別親しい者もない。何となく周囲から浮いていることには、気付いていた。理由は今初めて知ったわけだが、それらは彼女の咎ではない。同時に、清川監督が置かれている状況を、何とかしたいという気持ちは僕にもある。行く当てのない僕を拾ってくれた彼に、恩を返せる機会があるならば、逃したくない。
「……ま、二井山に言っても無駄だとは思ったけどな」
 岩見さんは苦笑して煙草をもみ消した。
「僕にお話があると言ったのは、このことでしょうか」
 堅い声になってしまったのは致し方ない。
「いや。また別件だ。……そろそろかな」
 懐中時計を確認した百田氏の先導でカフェーを出ると、辺りは暗闇に沈んでいた。仕事帰りか、買い物の帰りか、まばらな人影が行き来している。こつこつと響く靴音と、からころと鳴る下駄の音が、人の存在を知らせるよすがだった。
 やがて視界に立派な建物が入る。近付いて行くと、それが劇場だと知れた。看板には洒落た文字で月地小劇場、という表記があった。百田氏がこの劇場の出身だったな、とちらりと彼の背に目線を送った。
 月地小劇場とは劇場の名であり、付属劇団の名称でもあった。チェーホフやゴーリキーといった海外文学作品の翻訳劇を中心に演じる新劇派の劇団で、とりわけ舞台好きの級友は新派よりもこちらを好んでいた。
 新劇は人間の理性の理想を描く、という内容故に、芸術志向が高く、商業主義を廃することに腐心している。当然、娯楽の在り方を模索して発展した新派とは客層が全く違う。
 教養人ならば、西洋の先進的な空気を解するべき、という信奉にも似た何かが、僕の中では相容れなかったことを思い出す。
 もう既に閉まっている劇場の前を過ぎ、更に十数分ほど歩くと古い一軒家に辿りついた。元は商店でもしていたのだろうか、通りに面して大きな硝子の引き戸がある。内側には中が見えぬように暖簾がかかっていた。
 百田氏は、遠慮無く戸を開けるとするりと入り込み、岩見さんも後に続く。躊躇った僕を見て、彼らは「大丈夫だ」と笑った。覚悟を決めて足を踏み入れると、そこは土間であり、壁際には陳列棚らしきものが並んでいる。更に奥の部屋を訪った僕たちを、複数の男が迎えた。彼らは百田氏と同様に着流し、あるいはシャツ姿で、一様に気軽な装いだった。
「やあ、百田か」「来るのが遅かったから始めてるぞ」「それが例の奴か?」
 口々に話しかけられるのを、百田氏は軽くあしらった。部屋の光源は天井から吊られた裸電球が一つ。その真下に寄せた机の周りに、男たちが群がって作業をしていた。机の木目を覆い尽くすほどの黒い塊は、よくよく見れば細長い帯状のもの――膨大な量の九・五ミリフィルムであることが知れた。編集作業だろうか。
 僕は息を飲む。何故、こんな人目を憚るように、ひっそりと作業をしているのか――
「良い画は撮れたか?」
 僕の不安をよそに、適当な椅子に腰掛けた百田氏が、燐寸を擦りながら男たちに向かって問うた。
「ばっちりですよ。百田さんの助けがなければこんな画は撮れなかった」
「神前の労働争議のフィルムはあるか?」
「ちょっとだけなら。あとは特高の奴らに持ってかれた」
「次のデモは六月の郷田駅だ」
「それまでに完成させちまわないとな」
 取り交わされている会話の内容に、僕は目を剥いた。
 ――“労働争議”、“特高”、“デモ”。
 これらの単語から導き出せるものなど、ひとつしかなかった。
「プロレタリア映画……?」
 僕の呟きに男たちが一斉に視線をこちらに向けた。その目に宿るのは使命感に燃える、ある種異様なほどの輝き。煙草をくわえたままの岩見さんの薄い唇が、皮肉な笑みを形作った。
「そうだよ、二井山。俺たちは皆、プロキノの同盟員なんだ」

 日本プロレタリア映画同盟――通称プロキノ。
 
労働階級(プロレタリアート)の解放を主題に、作品を手がける芸術団体の一つだった。共産党を支持する全日本無産者芸術団体協議会(ナップ)の傘下に発足し、今は共産党指導の下、日本プロレタリア文化連盟に加盟している。
 プロレタリア映画は、たった一人で九・五ミリの撮影機を掲げ、メーデー・デモを撮ったのが始まりと言われる。
 資金力が物を言う映画での活動は、当初演劇の中の一部門でしかなかった。しかし、映画の興隆と共にその地位を高め、今や全国で催される労働争議やデモ、メーデーの様子を具に納めた実録映画を撮影し、全国で上映会を行っている。勿論、この活動は見つかれば即逮捕だ。国権を解体し、労働者の手による革命を謳う活動自体が、皇民をして富国強兵を目指す政府の意向と、真っ向から対立しているのだから。
 アカ思想そのものは、明治の頃より日本に入ってきていて、ある程度の支持者もいる。これが庶民にまで広がったのは、ロシア革命の成功で勢いづいたことと、恐慌時代の鬱屈を吹き飛ばすに十分な熱量があったからだろう。プロキノ結成の年に行われた共産党員関係者の一斉検挙を受けて尚――いや、だからこそか――衰えることなく活動は続いている。
「こんなこと、見つかればただじゃすまないぞ……!」
 敬語も忘れて詰め寄った僕に、百田氏は落ち着け、という風に手を振った。
「俺たちだって、そんなことは分かっている。だが、誰かがやらねばならん」
 それは岩見さんの科白だった。
「二井山、日本はこのままで良いと思うのか?」
 百田氏の声は、狭い部屋の中によく響いた。
「満州を平定して、このまま支那を領土にせんという勢いだ。軍部は目先の景気の良さで国民の目を誤魔化しているが、本土には職のない人間や、土地を追われる人間が増えていくばかりだ」
 百田氏はふと眉根を寄せ、痛みを堪えるような表情を浮かべた。
「俺の父親もそうだった。戦争が終わった途端、職を解雇された。労働組合を作って掛け合おうとしたが、治維法違反で捕まって、そのまま獄中で死んだ。戦争は何も生まんというのに、軍部は戦にしか興味がない。その足下に積み重なる無類の屍体が見えておらんのだ」
 演劇で鍛えた豊かな声量と抑揚の付け方は、こんな時でも人を陶酔させた。唖然とする僕の後ろで、そうだ、という小さな、だが確かな同意の声が上がる。
「雲上の人間は、権を握っていてもそれを暴走させるだけで、何の自由も、平等も、幸福も生まない。俺たちの個々の力は些少だが、それが集結すれば、この国を正す力になるはずだ」
 僕は、百田氏に圧倒されていた。押さえた口調ながら、堅い意志をのそかせる熱弁と、彼の見ている世界そのものに。
 映画には力がある――かつて僕は岩見さんにそう言ったことがある。その力とは、僕個人の価値観を変えるものという意味でしかなかった。けれど百田氏は、違う。映画が、個人の価値だけでなく、もっと巨大な群衆の力を作り出せると信じている。
 そして、それは政府も気付いているはずだ。皮肉なことに、執拗に共産勢力を潰し、検閲を強いれば強いるほど、映画の扇動力の強さを裏付けている。
(この人は……)
 僕はこの後に続く言葉を持たなかった。それだけ、僕とは違った存在だったのだ。
「二井山、俺たちに協力してくれ」
 こんな時でも岩見さんの声音には変化がなかったが、酷く重く感じた。僕はその言葉の重みを両手でただ支えるだけで精一杯で、何も答えられはしなかった。

「この間は、助けてくださってありがとうございました」
 清川キネマスタジオ近くのカフェーには、休憩中の映画関係者に溢れている。偶々休憩時間がかち合ったのか、僕の姿を認めた永和は相席を申し出て、席に着くなり頭を下げた。
 突然のことで瞬く僕に、動転して言い忘れていたので、と永和は恥じ入って俯く。撮影用の衣装のままの彼女に、僕は努めて明るく応えた。
「いえ、大したことじゃないですから。でも、無事で良かった」
 僕の科白に永和は微笑んだ。小さく控えめな笑顔は、現場で見せるものとは違って、どこか内気そうなものだった。
 暫く、他愛のない話が続いたが、僕の脳裏の奥には、先日の岩見さんと百田氏の言葉がこびり付いていて、なかなか話の内容が身が入らなかった。
「……この間から、何か思い詰めてらっしゃるように見えるのですけど、大丈夫ですか?」
 永和の心配そうな声音に、僕ははっとした。気付けば黙り込んでしまっていた。
 彼女はカップを手にしたままの格好で、首を傾げていた。気遣う永和の表情は本物に見える。岩見さんや百田氏が言うような、不吉な面影は何一つない。それはそうだ、彼女を取り巻く境遇は不運ではあったが、それだけだ。彼女を安心させようと首を振った僕に対し、永和は顔を曇らせた。
「もしかして、お聞きになったのでしょうか」
 何を、と僕が問うと、噂です、と永和は笑った。どこか諦めに似ていた。
「死を呼ぶだとか、運に見放されているだとか。そう、あとは監督の愛人だとか」
「まさか」
 僕が応えると、永和はくすくすと笑う。
「声が硬いですよ」
「……信じてはいませんから」
「そうですか? 噂には案外真実が含まれているものです」
「否定なさらないんですか」
「二井山さんは、どうなさったんです?」
 永和に切り返された。僕に付き纏ったスパイの噂も、彼女は知っているのだろう。あの時、僕は否定しても無駄だと思い、言いたい人間には言わせておけばいいと居直っていた。僕自身は割り切れても、彼女に悪い噂が囁かれていることには、良い気分がしなかった。
「実際、私の周りには亡くなられた方が多いんです。吹上さんが亡くなった時には、奥様にも責められました。『売女の娘なんかをうちにいれるんべきじゃなかった』と」
 あまりにもあっさりというものだから、僕の方が慌てた。彼女が銀幕の外で、醜聞に揉まれるのを見たくなかった。僕は声を低める。
「……お母様のことと、小志鳴さんのことは別でしょうに」
「私も、そう思っていました。けれど……本当にそうでしょうか? だって、二井山さん」
 彼女は僕に呼びかけてから、少し躊躇した。
「あなたが私に良くして下さるのも……」
「小志鳴さん」
 僕は彼女の科白を遮って、彼女の目を見つめた。永和は戸惑ったような表情を浮かべていたが、やがて目線を僕から外してカップの中身を探った。
「……ごめんなさい」
「いえ。……下心がないと言えば嘘になります。あなたは僕の憧れなんですよ」
 自然と唇がそう紡いでいた。冗談や世辞だと取られても構わない、と気負うことなく思えた。取り繕っても仕方がない、それが僕の真実なのだから。
 案の定、永和は通り一辺倒の愛想だと判断したのだろう、やんわりと微笑んだ。おっとりとした風情ながら、これ以上踏み込むことは許さない、としっかりと線を引かれた気がした。
「お上手なんですね。でもお芝居と、現実の私は違います」
「分かってますよ。銀幕に映るあなたは、実に多彩です」
「実物を見て、幻滅なさった?」
「危なっかしくて、見てられません」
「二井山さんに言われるようじゃ、相当ですわね」
 そして、示し合わせたかのように目線が合って、口元が緩んだ。僕らは、端から見れば恋人とは言えずとも、それなりに親しい二人に見えるだろう。だが、永和は決して、僕に心を開くことはないだろう――唐突に、悟った。
 けれど、それが何だというのだろう。僕は何かの見返りを求めて彼女を追っていたわけではない。この触れられそうで、決して届かない距離感すら、僕は心地よく感じていた。こんな想い方なら悪くはない。
 僕はカップを戻すと、意を決して内海のことを切り出した。
「内海という男は、亡くなったそうです。身上の良くない人物で、何かの事件に巻き込まれたとか」
「本当に……いらっしゃったんですか」
 永和は目を見開いた。十年近くも前の母親からの伝言だ。永和自身、あまり信じていなかったのかもしれない。
「ええ、三年前までは生きていたようです」
「それはどなたから?」
「えいわ荘の大家さんと、以前に入居していた岩見さんから聞いた話です。いずれにしろ、彼の人となりについて詳しくはないようでしたが……」
「……そう、ですか」
 呆気なく、永和は頷いた。希望が潰されたのにも関わらず、堪えてはいないように見えた。
「やはり、もう諦めるべきなのかもしれませんね」
 呟く永和の表情を見ていると、内海の行方がつかめないのも、覚悟の上だったようだ。やがて、彼女は安堵の表情を浮かべた。
「二井山さん、ありがとうございました。これで私も踏ん切りがついたように思えます」

 ――それ以来、小志鳴永和と話す機会は減った。代わりに百田氏と並んでいる姿を良く見かけた。
 主演同士なので珍しいことではないが、永和自身から働きかけているのは珍しかった。彼女は基本的に受け身で、他人と積極的に関わるのを避けているように見えたから。
 僕は僕で、プロキノの同盟員になると決めたわけではなかったが、時折作業場たる一軒家を訪ね、作品が公開される度に月地小劇場へ足を運んでいた。熱気に包まれた劇場は、いるだけで気分が高揚した。確かに、彼らの行動は違法だろうが、世の中を変えるためには荒療治も必要なのかもしれない――という考えがもたげるようになったのは、清川監督の撮影も終わりに近づいた六月後半のことだった。
 僕は直接手伝ったわけではないが、こうして彼らの活動を見守り、共感を覚えるというだけでも十分に検束の対象になっているだろう。法を犯しているという後ろめたさと同時に、こうしなければより良い未来はないのだ、という意識が働いた。つい先日も、花出町で行われた労働争議フィルムの上映劇場の裏側に、僕は立っていた。
 興行の為に月地署から許可証を得てはいたものの、弁士を置くことや伴奏を流すことは禁じられていた。トーキーを作る余裕のない彼らの作品は自然、無声映画ばかりであったから、これはかなり厳しい条件だ。しかし、飲まなければ公開すら出来ない。
 当日はスクリーンの設置された壇上脇、本来なら弁士の居る位置に臨監の警官が立ち、訪れる観客たちに睨みを効かせていた。
 公演の数日前に、十数名しかおらぬ同盟員全員で電柱や壁に貼った
伝単(ビラ)を見てやってきた観客は、どこか草臥れた雰囲気の、働き盛りと見える男らや、身なりの良い学生が殆どで、女の姿もちらほらと見える。上映が始まり、ただ無音で映し出される争議の様子を、彼らは百田氏と同じような熱の籠もった眼差しで見つめていた。
 説明がなくとも意図は伝わり、会場には興奮した観客の怒号や歓声、拍手が起きると、臨監たちが直ぐさま「やめろ!」「検束するぞ!」という警告を飛ばす。そのまま観客と警察との間で揉み合いになるのは日常茶飯事だった。
「……おかしいな」
 いつもの作業場で、常のように煙草をくわえながら作業を見守っていた岩見さんが、唐突に呟いた。それは花出町労働争議の公演一ヶ月後、また新たな労働映画を作っている最中のことだった。
「最近、上映場所が特定されるのが早い。……直前まで伏せられているはずなのに」
 その科白を受けて、作業中の男たちの間にぴりりとした空気が走った。基本的に、上映は所轄の許可を得て行っているが、予定していた興行施設が要件を満たしていない、定員はこの人数までしか認めない、などと規則を盾に許可が下りなかった時には、無断で上映会を開くこともあった。その際は、事前に伝単は配らない。官憲が知るとしても、幾許かの猶予があるはずのに、近頃は計ったように始まってすぐ、ということが増えていた。まるで事前に把握しているかのような素早さだった。それはつまり――
「おい」
 僕の懸念を裏付けるように、岩見さんがとある同盟員の肩に手を置いて、呼びかける。その男はびくりと体を震わせて、何ですか、と尋ねた。
「何ですか、じゃないだろ。お前が伝単をこっそり持ち出してるの、俺が気付いてないとでも?」
「い、嫌だなあ……岩見さん、もしかして疑ってるんですか?」
 男は顔をひきつらせて笑い、岩見さんを見上げる。岩見さんは微笑んだまま、男に煙草の煙を吹きかけた。男がそれを避けるために顔を背けた瞬間、がっと鈍い音がして、床に倒れ込んだ。
「!」
 岩見さんが男を殴り、その衝撃でがらんがらん、とけたたましい音が鳴る。僕が騒音の正体を探って目を向けると、煙草盆が落ち、中身の吸い殻がぶちまけられていた。傍にうずくまり灰に塗れた男の腹に、岩見さんは容赦なく蹴りを入れる。二発、三発、と鈍い音が続き、男のうめき声と謝罪とが響いた。
「岩見さ――」
 制止の声を上げた僕の肩を掴む手があった。百田氏だ。
「あいつには逆らうな。それに裏切った奴が悪い」
 小声で囁かれた科白に、反発を覚えた僕が反論を口にするより早く、百田氏が続ける。
「俺たちが一番恐れているのは仲間の裏切りだ。内海みたいになりたくなけりゃ黙ってろ」
「!?」
 ――内海。身上が良くなくて、酷い死に方をした男の名。永和の探し人。もしかすると父親かもしれない、という。
 何故その男の名が、今、百田氏の口から飛び出たのだろう。僕は自然と彼を探るような目をしていたのかもしれない。まるで逃れるように、百田氏は僕から視線を引き剥がした。肩を掴んだ彼の手だけは、頑なに離れようとはしない。
 その間にも、岩見さんの一方的な制裁は続いていた。彼の表情は、常と変わらない。だが、身に纏う空気は怜悧で、迂闊に近づけば切られそうなほど。
 ――プロレタリア映画に関わる以上、いつ留置場送りになるか分からない、という恐怖は常にある。けれど、今感じている恐怖はそれとは別物だった。
「なあ、これでも手加減はしてるんだぜ? お前、小林多喜二がどう死んだか、知ってるよな?」
 ナップの機関紙である『戦旗』誌面で、積極的に作品を発表していた作家だ。今年の二月に、心臓麻痺で死亡したと当局の発表があったが、彼の遺体には筆舌に尽くしがたいほどの拷問の跡が残っていた、と聞く。少しでもアカに関わっているならば、知らぬ者はないだろう。
 岩見さんはしゃがみ込み、男の髪を掴んで顔を上げさせる。苦痛に歪んだ顔を、やはり平然と眺めながら、揺さぶった。
「釈明があるなら言えよ。その口は飾りじゃないんだろ?」
 男の口からは呻き声と、小さな謝罪が漏れるだけだ。岩見さんは興味を失ったのか、物を手放すように男の頭を解放した。ごつ、という床にぶつかる音が何とも痛々しい。
「ま、裏切りを働く奴は、こうでなくちゃな」
 どこか感心したように岩見さんは言い、床に投げ出された男の手首を押さえ付ける。そして、岩見さんはそのまま無造作に煙草を手に取ると、男の手の甲で火を揉み消した。
 忽ち上がる悲鳴と、
洋酒(ラム)の甘い香りと、僅かに混ざる異臭は、肉の焼ける臭いか。ただ立ち尽くすしか出来ない僕らを尻目に、岩見さんはさっと立ち上がり、こちらを向いて顎をしゃくった。
「こいつは徹底的に査問してやれ」
 岩見さんが無造作に言い放った一言に、男が叫んだ。やめてください、とそれこそ血を吐きながら。
「最初から分かってたことじゃないか」
 岩見さんは取り合わず、追い立てるように手を振ると、数名の同盟員が示し合わせたように足を踏み出し、男を引っ立てて出ていく。男は嫌だ、お願いします、やめてください、と拒絶と懇願を繰り返した。最後にそれは悲鳴となって、厭らしい余韻を残して闇に沈んだ。
 部屋を出た先の土間で、男が投げされたのかどさりと重い音がし、殴打の音が続いた。
「岩見さん!」
 呼びかけると、彼は新たな煙草に火をつけ、盛大に煙を吐き出した。紫煙の甘い香りの中に、まだ異臭が紛れ込んでいるような気がして胸が悪くなった。
「いくらなんでもやりすぎです!」
「なあ、二井山。お前分かってんのか。俺たちは国を相手取って、戦争してんだぜ。甘っちょろい考えは捨てろ」
「……な……っ」
 何を言っているのか、この人は。僕の頭の中にはその科白だけが、壊れた幻灯機のように巡った。
「二井山。岩見の発言は極端だが、形を変えた戦いであることは確かだ。銃を握る代わりに、映画を撮る――それが俺たちの実弾になる」
 百田氏の発言も、今の僕には理解しがたいものに聞こえた。
「百田はどうか知らないが、俺は二井山を信頼してるぜ? 誠実で良心的人間が、俺は好きだ」
 岩見さんはいつも通りの微笑みを浮かべる。人ひとりを足蹴にした後で、こんなにも平然としていられることに、ぞっとした。周囲を見回すと、いつものことだと言わんばかりの風情であるか、痛ましい顔をしていても、仕方ないと受け入れているように見えた。
「だから、余計なことすんなよ? 流石に親子揃って地獄へ追いやりたくないだろ?」
「誰のことだ……」
 言いながら、僕の口の中にはじわりと苦みが染み出てきた。舌が痺れたかのように、上手く回らない。果たして岩見さんは、予想していた通りの人物の名を紡ぐ。
「内海義一。内務省の特別高等警察課にいた男だ。こっちの動きを探ってた。――小志鳴永和の父親」
 ふっと紫煙を吐き出した岩見さんは、懐かしい思い出を語るような穏やかな表情をしていた。
「浪藤って芸者崩れの女が相島にいて、良く映画人と関係してた。それに目を付けた内海が浪藤を籠絡したんだろう。あの女は内海にはほだされて、俺や、俺の仲間を売った」
 その浪藤は自身の家に内海を匿い、彼との間に子を生んだ。それが永和だと岩見さんは淡々と告げた。
「邪魔だったんだよ」
 その岩見さんの科白と表情とが、強烈な怖気を催すほどに凍えていた。裏切りを許さない彼が、浪藤と内海を放っておくだろうか。
「まさか、彼女にも害を成す気ですか?」
「それは、二井山次第かな。言っただろ? 誠実で良心的な人間が好きだと」
 にこりと、楽しそうに笑う岩見さんは、こんな時でなければ無邪気な子供のようだった。
「それじゃ、後は頼んだぞ」
 岩見さんが背後の男たちに声をかけると、彼らははい、と応えて何事も無かったように作業を再開する。岩見さんは僕の肩をぽん、と叩く。僕が振り払うよりも早く、彼は手を挙げるとふっと、鼻で軽く笑ってその場を後にした。
「二井山、機材を箱に詰めてくれ」
 百田氏に言われ、僕は差し出された段ボールをひったくるようにした。
「百田さんは、何とも思わないんですか」
「今は黙っていろ」
 いつになく堅い声で百田氏に窘められたが、黙ってはいられない。さっきの男はまだ暴力に晒されている。査問、とはどういう意味だ。内海みたいに、ということはやはり、殺され――僕は口元を押さえた。男の悲鳴に重なって、内海氏の死に様が脳内に喚起されて、酸がせり上がってきた。気持ちが悪い。視界がぐるぐると回り、きつく目を閉じた。
「大丈夫か?」
 介抱しようとしてか、伸びてきた百田氏の手を振り払った。
「この家が拠点だと知られている虞がある。ここはもう使えない」
 百田氏は求めてもない説明を僕に聞かせたが、殆ど耳に入らなかった。とりあえず目の前にある物を、ただひたすら箱に入れるだけの作業に徹したが、手にしたものがフィルムであることが分かると、無性に握り潰したくなった。
「おい、そんなにしたら千切れる――」
「立派な信念だと思っていました。でもこれじゃ、あんたたちが憎む官憲そのものじゃないか」
 僕の怒りに震えた手を、百田氏が取る。
「抑えろ。岩見がいなくて良かったな。……まあ、お前を簡単に手放すとも思えないが」
 粗方片づいたところで百田氏が立ち上がり、全員の顔を見回した。
「二井山の言うことも最もだろう。だが皆、思い出せ。このままでは駄目だ、本当に変えねばならないという想いがあるから、ここにいるんだろう?」
 岩見さんが鞭だとしたら、百田氏は飴なんだろう、と冷めた頭の隅で考えた。まるで、犬を躾るのに似ている。
「よし、行くぞ」
 荷物を運び出し、別の作業場に移動する作業は明け方近くまで続いた。その日の午後、かの一軒家に官憲の手が入ったと、同盟員の一人から聞いた。

 この日以降、僕は岩見さんと百田氏からは距離を置くようになった。作業場に足を運ぶ頻度を減らし、なるべく彼らの動線に入らないように心掛けた。そのことに彼らも気付いたのだろう、数日もすると、常に彼らの姿が僕の視界に入るようになった。
 僕の最大の懸念は永和の身に危険が降りかかることだったが、彼女の側には百田氏がいて、彼女に忠告しようとする僕を牽制した。
 撮影所以外でも、何者かが僕をつけていることがままあって、危害を加えるつもりはないと分かっていても、監視されているという恐怖と圧力は、じわじわと僕の精神を蝕んでいった。
 部屋にいても、誰かの目があるような気がする。外を確かめれば、誰かが立っている気がする――ありもしない影を恐れる日々が十日あまり続いた。
 その間にも永和の撮影は終了し、こうなるとどう接点を作ればいいのかも分からなかった。清川監督に頼ることや、えいわ荘を出ることも考えたが、迂闊なことをすれば彼女の身に何が起きるか分からない。それなら僕が許しを請えば、それで全て解決するなら――いや。僕は首を振る。あんな非道を、容認出来るはずがない。だが、
(……今更だ)
 無力感に苛まれた。僕が知らなかっただけで、見えないところではああいった制裁は既に行われていたのだ。それを、映画界に入ることに激怒していた祖父は……恐らく知っていただろう。
 自分が罪に問われることに対し、怖くないとは言い切れない、荷担したと見られても致し方ない。だが彼女だけは。
 その時、扉を叩く音があって、僕は必要以上に驚いてしまった。そんな自分に苦く笑う。こんなに臆病者だったんだな、僕は……。
「はい、どちら様ですか?」
 返事をしたら数人の男が雪崩れ込んでくる――という埒もない妄想が駆け巡ったが、返ってきたのは大家の声だった。
「二井山さん、お客さんですよ。とわこ、と言えば分かるって」
「とわこ……」
 聞き覚えのない名を、僕は反芻する。とわこ、とわこ……あ!
「二井山さん? 知らないようだったらそう……」
「知ってます! 知り合いです!」
 慌てて扉を開けると、勢いに吃驚したような顔をした大家さんと、白い顔をした永和がいた。彼女は僕の顔を見ると少しばかり表情を緩めて、こんばんは、と小さな声で言った。
 興味深げな大家を何とか振り切って、永和を部屋に差し招くと、彼女は大人しく従った。所在なげな永和を取りあえず座らせてから、慌てて薬缶を火にかけた。
「突然、どうしたんですか、こんな時間に……」
「済みません……」
 彼女はそれきり口を閉ざした。よく見れば、彼女の顔は憔悴したようで、いつもきっちりとした彼女ににしては珍しいことに、結い上げた髪がほつれていた。若い娘が着るには地味な小豆色の小紋の襟に添えられた手は、ぎゅっと握りしめたまま血の気を失っている。嫌な予感がした。ざらりとした不安が、僕の二の腕辺りを撫でているようだ。
「私……二井山さんに訊きたいことが……」
「何ですか?」
「岩見、と名乗るあの人は何者ですか?」
 永和から予想外の質問が飛んできて、僕は数度瞬いた。彼女は怯えた表情を浮かべ、肩の辺りをさすった。
「あの人に見覚えがあります。でも岩見という名前ではありませんでした。桐島晃です」
「桐島……作家の、ですか?」
 忘れようもない『君、白キ冬』の脚本家だ。
「『君、白キ冬』は公開一週間で打ち切られました。清川監督がまだ不完全だったから、と取り下げたのが表向きです。けれど、実際には内務省の許可が下りる前に公開されたのが露見して、自粛したんです」
 あの短い公開期間の裏側に起きていた一幕を、さらりと打ち明けると、永和は息を整えて続ける。
「結果的に軍部批判もなかったので、注意だけでお咎めなしになりました。ですから再度上演、という流れになっていたのですけど、どうもそこで、清川さんと桐島さんは意見が分かれたらしくて……桐島さんは、その後傷害事件を起こして逮捕されました」
 桐島晃は映画の公開と同じくして、新聞小説を連載していたはずだが、ぱたりと聞かなくなった。元々移り気なところがある作家だったから、珍しいことではないと、軽く考えていたがまさか、捕まっていたとは。
「その後、私は別の撮影で遠方へ向かい、戻ってきた時にはお亡くなりになったと伺いました。けれど今、岩見と名乗って脚本を手がけている……」
「勘違い、というのもあり得るのでは……」
 永和の言い分を否定しながら、僕は少しだけ腑に落ちた気がした。桐島晃の作品に滲む、飄々とした皮肉屋の影は、どことなく岩見さんの雰囲気と合致していたからだ。
 僕の言葉に、永和は首を振って懐から手紙を取り出した。わずかな温みが残る葉紙には、流麗な女の手跡で永和を気遣う文面が認められている。そして、追記には――
『桐島という男には気をつけない。もし何か困ったことがあれば、えいわ荘の内海義一、という方を尋ねなさい。きっと、力になってくれるはずだから』
 僕が顔を上げると、永和はきゅっと唇を結んだ。
「それを最後に、便りは途絶えました。母も桐島も震災で命を落としたのなら、それは致し方ありません。けれどもし、桐島が生きていて、母を脅かしていたのだとしたら……。それで、心当たりを探していたんです」
 そこへ、僕から内海義一が殺されたことを伝えられた永和は、ますます疑いを強めた。
「二井山さんには悪いと思ったんですけど、後をつけたりもしました」
 ぞっとした。か弱い女の身で、そんなことをすれば、何が起きていたか分からない。
「もちろん、変装はしましたよ」
 僕の顔に浮かべた非難の色を見て、永和はそう取り繕ったが、問題はそこではない。
「初めて桐島を見かけたのは五年前ですが、百田さんに引き合わされた時、すぐに分かりました」
「まさか、その、岩見さんに真相を尋ねたりなんかは……」
「そこまで無謀じゃありませんわ。向こうは私が疑っていることを知らないでしょうし……」
 永和は微笑んだが、僕は首を振った。岩見さんは永和が、内海氏と浪藤の娘だと知っているし、彼女を倦厭するような言動が多かった。今思えば、己が手を下した――かは想像でしかないが――ことを気取られまいと、彼女を警戒していたのではないだろうか。
 落ちた沈黙の中で、薬缶が蒸気を吹き上げならしゅんしゅんと鳴いた。慌てて用意した安い煎茶は苦みばかりが先に立って、いまいちではあったが、馴染みのある味には安堵を覚えた。
「……僕は、小志鳴さんに忠告しようと、機会を伺っていたんですが……」
 僕が岩見さんの意に反する行動を起こせば、永和の命はない、と脅されていた身だ。しかし、彼女がこうしてここへ来たことで、僕に対する抑えは何の意味も持たなくなってしまった。最悪、岩見さんは僕たち二人を『査問』するだろう。そうなる前に――
「逃げましょうか」
 咄嗟に提案したことの滑稽さに、こんな時ではあるが僕は吹き出しそうになった。これこそ、まるで映画だ。命を狙われた男と女が、手と手を取り合って新しい土地へ――
「それも、悪くありませんわね」
 強ち冗談でもない風に永和は応えた。互いに語る言葉を失った。はらはらと振り積もる、沈黙の形をした雪のかけら。時計の針が規則正しい拍子を刻む。風がかたかたと窓を叩く。僕たちを見知らぬ世界へと、差し招くように。僕と永和の目線が絡み、結んで、引き合う。
 先にそれを断ち切ったのは永和の方だった。
「……なんて、お話みたいに上手くは行きませんわね」
 同意を示しながら、少しばかり残念な気もした。二人で逃げてしまえば、こんなに追いつめられることもなかった……いや、一緒か。たとえ逃げたおおせたとしても、生涯背中に影を感じ続けるだろう。肩身の狭い思いを余儀なくされるだろう。それに耐えられるぼど強くあれるのか、自信がなかった。
「それに私は、罪を許すつもりは、微塵もありません」
 永和が言い切る。その強い物言いに驚いて、僕は改めて彼女を見つめた。僕はもしかすると、永和を誤った想像で把握していたのかもしれない、と思った。彼女の目は決して後ろ向きでも、諦めてもいなかった。
 彼女の大人しげな容貌や振る舞いが、受け身で儚げで弱々しいという概念を僕に植え付ていたが、この境遇にあって己の義を貫ける彼女は、勇ましいと呼べた。
 そこには、久しく見ていなかった千冬の面影が覗いた。強気で怖いもの知らずで、我が強い。永和本来の性質はこちらなのかもしれない。
「あなたがそこまで覚悟を決めているなら、僕も逃げるとは言えませんね」
「ごめんなさい。巻き込んでしまって……」
 いえ、と僕は笑った。上手く笑えたかは定かでないけれど。
 彼女とは運命共同体なのだ――と思えば悪くない。例え、行く先が不透明な運命であっても。
「巻き込まれたのが僕で良かった。他の誰にもこの役を譲るつもりはありませんよ」
 おどけた言い方が可笑しかったのか、永和は控えめに笑い声を立てていたが、やがて顔を歪ませた。
「私はこれまで、運命というものを憎んだことはありませんが……今この時だけは、あなたに出会わなければ良かったと、心の底から思います」
 流れる涙を、最初に真珠に例えたのは誰だろうか。詩的な表現は時に本質を掻き消し、却って陳腐なものに成り果てる。けれど、僕の目には確かに彼女の涙が真珠に見えた。心の海の底に眠っていて、決して現実には身に付けることは出来ないけれど、生涯色褪せはしない幻の宝石。
 これに勝る宝が、この先見つかることなんて、あるだろうか――
 気付けば、僕は彼女を抱き寄せていた。戸惑った表情を間近で眺めていたら、彼女はそっと顔を伏せた。肩口にある永和の頭の重みを確かめながら、愛しいという感情を初めて理解したような、そんな気がした。

 僕と永和は岩見さんの元に出向いて、プロキノに参加する旨を伝えた。永和が害されることがないのなら、それでも構わないという僕の言い分は、疑われることなくあっさりと通った。半ば本音だった、というのもあるだろう。
 岩見さんが強固な革命思想を持っていることは危険だったが、プロレタリア芸術そのものの存在意義自体には、僕はさほど反発を覚えてはいない。政府のやり方が一義的であればあるほど、それに対する反動が生まれることは至極当然のように思えた。
 同盟員は百田氏のように、労働組合の運動に関わって獄死した身内の恨みを抱えている者の方が少数で、僕と同じように映画業界の末端で働く者が大半だった。
 人気役者なら、映画会社と破格の報酬で年契約を結べるが、僕たちのような下っ端は、あちこちの現場に走らされ、時間などお構いなしに使い捨てだ。一日五円の日当が約束されていても、実際には支払われることがない、というのもざらだった。
 ちなみに僕には清川キネマから、二十五円の月給が出ていた。岩見さんには、まともに大学出てりゃ倍以上は貰えただろうにな、とからかわれたが、好きな仕事で金を貰い、衣食住の心配がない生活が送れる僕は幸せな方だ。――資本の搾取は『遠くの世界で起きている悲惨なこと』ではなく、すぐ傍にある現実だった。
 他には、立派な身代を持ちながらも、大学へ進めず官僚の夢を断念した者、徴兵を免れて暇を持て余した高等遊民など様々おり、もし彼らに共通することがあるとするのなら、皆居場所の定められない人間だ、ということだろうか。
 世の中を変える意志や行動力があっても、手段や道筋を絶たれた者たちが行き着いたのが、この狭い作業場だったのかもしれない。図らずも、僕も似たようなものだ。強きを挫き、弱きを助く――そう看板を立てながら、守っているのはそれぞれの自我と自尊心なのかもしれない。
 そんなことをつらつらと考えながら、編集作業に勤しむ。プロキノの一員として舞い戻った僕を、初め周囲は疑ったが、百田氏は歓迎してくれた。
 彼の明るく気さくな空気は、過去の摩擦を覆い隠すかのようだった。また僕も疑いをもたれぬように行動していただけでなく、プロキノに参加したい、という人間を複数紹介したお陰で、三ヶ月も経とうと言う頃には、すっかり元の通りになっていた。
 永和は劇場には足を運ばない。女の身では危険だ、という至極真っ当な道理が罷り通るのが、いっそ滑稽だった。その女の身を盾に、僕の危機を煽ったことは彼らの頭から抜け落ちているらしい。
 清川監督の元から、何人もアカが見つかっては監督にも迷惑がかかるでしょう、と言って永和は直接的な活動ではなく、資金協力を申し出ていた。第一線の役者ほどではなかろうが、名脇役としての地位が固まりつつあった永和の援助に、同盟員たちは素直に喜んだ。デモ撮影に向かう電車賃すらままならないほど、資金集めに苦労している彼らにとっては、願ってもない申し出だった。
「次のデモは十一月初めの高良町だ。いつものことだが、編集は突貫になる」
 岩見さんの発言に、一斉に頷いた。
「今回は大規模な上映だ。東京と京都はもちろん、各地の小劇場で一斉にぶちかます。例によって、日時はその日の朝まで伏せるが、まあ近いうちだろう」
「上映場所は決まってるんですか?」
 と、これは僕が連れてきた山西という男の問いだ。同窓の誼で声をかけた一人である。
「決まってる。月地小劇場だ」
 皆の顔が引き締まった。かの劇場は、最初にプロレタリア劇を公演している。
 プロキノの前身は左翼劇場という劇団の映画部であり、デモやニュース映画の他、芝居の途中に流す連鎖劇のフィルムも作っていた。独立してプロキノと称されるようになってからも、演劇と映画を同時に上演するのは珍しいことではなかった。
「俺たちにとって思い入れのある場所だ。あそこからプロレタリア劇が生まれたんだから」
「ああ」「それもそうだな」と口々に頷く彼らと一緒に重く頷いていた百田氏に、僕は声をかけた。
「岩見さんって月地小劇場にいたんですか?」
 僕は彼を根っからの映画人だと思っていたから、会場も月地小劇場でなく、初めてプロレタリア映画が上映された読売講堂ではないかと考えていた。
「ああ。俺が劇団に入った時には翻訳劇を書いてて、その手伝いをしたのが縁だ」
 百田氏自身、当初は役者ではなく脚本家志望だったそうだ。映画と演劇は近しい場所にある。プロキノとプロット――日本プロレタリア演劇同盟の略称だ――の掛け持ちは珍しくはない、と百田氏は言う。
「へえ……岩見さんは新派劇ばかり書いてるんだと思ってました」
 桐島晃名義とは作風を変えているのだろうか。作家の逸話としてよく聞く話だ。
「一時期だが、代筆したことがあると言っていたな。桐島晃って新派作家の」
 僕は百田氏に悟られないよう、殺した息をそっと吐き出した。
「桐島は当時売れっ子作家で鳴ってたが、それよりずっと前から不調を来して、殆ど書いてなかったらしい。『君、白キ冬』は数年ぶりの新作で、再起を懸けてたようだが……公開が打ち切られて、桐島は相当落ち込んだと聞くな。傷害事件で逮捕されて、戻ってきたかと思えば、自宅近くの貯水池に落ちて亡くなった。多分、阿片でも服用し過ぎたんだろう」
「……」
「それ以降代筆はやめた、と言っていたが……二井山?」
 僕は首を振った。桐島の死の真相を、永和は知らないようだった。それどころか、岩見さんを桐島当人と思っている。以前、永和の周囲で死んだ人間は三人だ、と岩見さんが言っており、人数が合わないとは思っていた。以前世話になっていたという吹鳴座の吹上氏と、父親の内海氏、そして桐島氏がそれか。さすがに吹上氏の自殺には関連していないだろうが、内海氏と桐島氏は手を下した……かもしれない。
 一体、何が岩見さんを突き動かして、こんな大きな罪を犯すことになったのだろう。飄々と微笑む彼の横顔からは、人を殺すような激情は見受けられないというのに。
 それから暫くした後、岩見さんから次の上映場所と、日時が告げられた。僕は息を飲み、小さく拳を握りしめた。

 昭和八年十一月、月地小劇場――
 上映当日を迎えた僕は、見覚えのある看板を見上げ、そっと息を吐いた。時間帯は大胆にも真っ昼間で、往来の多い場所だ。今までの官憲との攻防の様子を思い出し、今日も同様、あるいは今まで以上の混乱があるかもしれないことを念頭に置きながら、僕は如何に振る舞うべきかの確認を念入りに行った。東京だけでなく、大阪や神戸でも同様に上映の準備を執り行っていた。
 表向きにはプロレタリア映画の上映会ではなく、過去に公開していた新派映画の再演という内容で、月地署から興行許可を貰っており、実際何作か上映する。その途中に、予告なくプロレタリア映画を流す手はずになっていた。
「詭弁だが、幾らか誤魔化しが利くだろう」
 いつものように煙草を吹かしながら、作業を続ける仲間の姿を見つめていた。岩見さんは相島周辺にいるプロキノ同盟員の実質的な支配者だった。いわば監督のようなもので、基本的に指示を飛ばすだけで何かをするわけではない。僕もまた彼の指示の元、会場設営のためにかり出されているわけだが、何故だか岩見さんは僕の近くにいることが多かった。
 もしかして、まだ疑われてるのだろうか、と考えたが、頭を振った。考えるだけ馬鹿馬鹿しい。
 この場には、永和の姿はない。来たがった彼女を、何とか押しとどめたのだ。僕が罪に問われることは厭わない――永和自身も罪を被ると言ってくれた――けれど、軽く済むならそれに越したことはない。混乱の中では何が起きるかも分からないから、彼女だけは大丈夫だという安心が欲しかった。
 僕の説得に、彼女は渋々ながら承諾した。今頃、えいわ荘の大家の元に身を寄せていることだろう。
「そろそろ上映時間だな」
 劇場の袖に颯爽と現れたのは百田氏だ。
 僕が初めて映画を見た時にも、スクリーンの傍にフロックコートにシルクハット姿の弁士がいたことを思い出す。その弁士は洋装に馴染んでおらず、滑稽味すら覚えたが、すらりと長身の百田氏が同じ格好をすると、流石に格好が良く、一際目を引いた。
 彼はまさしく弁士を演じ、前説や作品の解説を請け負う。そして、人々を扇動する役目も。岩見さんは表に出て直接語りかける役目を百田氏に任せ、自分は影に徹することを選んでいた。
 上映を間近に控え、僕はそっと緞帳から様子を窺うと、予想通り会場は満員だった。時間的に親子連れが目立つ。これが本当に純粋な興行であれば、どんなに良かっただろう……。
 劇場の後方入り口付近には、当然のように臨監の警官がびしりと立っていて、僕は唇を引き結んだ。
 やがて、明かりが落ちて、重い幕が開く。岩見さんが百田氏に、任せた、と声をかける。百田氏はああ、と頷き、背筋を伸ばしてスクリーン脇に設えられた弁士の席へと向かっていった。
「さあ、ここにお集まりの紳士淑女の皆様! こんなお時間にいらっしゃるとは余程の物好きの方々とお見受け致します」
 百田氏は軽妙な語り口で観客に言葉を投げかけ、ひとしきり笑い声が上がった。きらきらとした眼差しで見つめる様子には、映画を楽しもうという気配がひしめき、それを見て息が詰まりそうになった。
 そう、映画には力がある――けれどそれは、武器にするためではない。この重苦しい世の中に見るたった数時間の夢は、人々に潤いを与え、明日を生きるための糧であるべきだった。
「これより幕開きますは、一人の男の物語であります。春と冬、対照的な乙女たちに翻弄される青年の葛藤、青年に焦がれ懊悩する乙女たちの生き様。斯様なる男と女の行き着く先は如何なるか――」
 朗々とした百田氏の語りに魅入られている観客の中、舞台袖に控えた僕が視線を走らせると、同輩である山西と目が合った。彼は傍目に分からぬように小さく頷くと、つとハンチングのつばに手をやって身を屈めた。群衆の中を縫ってそっと劇場から出て行くのを見送って、僕はその時を待った。
 百田氏の弁士としての才は際立っていた。熱狂的なファンを生むほどの人気弁士も斯くやという有様に、観客の興奮も最高潮に達しようとしていた。
 上映は順調に進み、一つ演目が終わる度に人の入れ替わりがあった。初めは親子連れ、女子供の姿が目立ったが、時間帯が夕刻に近づくにつれ、その客層が次第に変わっていくのが分かった。恐らく伝単が撒かれた頃合いなのだろう。
 ――そして、時が来た。それまで、喜劇に悲劇に身を委ねていた客たちは、突如映し出された労働争議の様子に、一瞬ぽかんと口を開けた。
「今、この時に集まりたる、革命の民よ!」
 百田氏はシルクハットを客席に投げ入れるや否や、滑稽で軽妙な弁士の仮面をかなぐり捨て、勇ましく呼びかけた。
「権に貪られ、捨てられた、哀れな無辜の民よ! お前たちは、このまま地を這い、泥水を啜り続けることを良しとするか!?」
 百田氏の声には爛々たる輝きが宿り、人々を引きつける力があった。これはまずい、と及び腰になった人間ですら、思わず引きずり込まれそうなるほどに。臨監たちも同様であったらしく、百田氏の口上を遮ることを忘れていた。
「お上は戦にうつつを抜かし、我々の苦しみを知らぬ。雲上の方々にとって、我々の命は羽虫のようなものであろう」
 少しばかり抑えた声に、悔しさが滲んでいた。
「官憲に怯え、明日の我が身を憂い、世の鬱屈に殉じるを良しとするか? 否! 我々は奴隷ではない。個として意思のある、尊き命だ。なれば、ここに宣言せよ! 我ら民草の蜂起の歌を!」
 百田氏の煽動に応じて、おお、と応える声があり、拳を突き上げる。そこで漸く、臨監たちは我に返ったようで、「やめろ、やめろ!」「検束されたいか!」というがなり声が重なる。しかし、彼らの制止は観客の興奮にかき消されていた。
 劇場の内に生まれた熱狂に比例して、僕の緊張も高まってゆく。歓声に埋もれていた心臓の鼓動が僕を支配する。観客の拍手も口笛も、賛辞も怒号も一つの大きな渦に飲まれて渾然一体となる。全ての雑音が、鼓動一つに収束されてゆく。そうして、いつ切れてもおかしくない神経の糸が、漸く断ち切られた。
「映写をやめろ!」
 という警告と共に、ぎゃっと悲鳴が聞こえた。咄嗟に視線を向けると煙のようなものが見えた。催涙ガスを使ったのだろう。だがそれは、却って観客たちを逆撫でする行為だった。忽ち乱闘が起きるのが、薄暗い会場の中でもはっきりと分かった。
「ここまでか」
 岩見さんが舌打ちをし、眉をひそめて腰を浮かせた。僕は彼のシャツの袖を引っ張った。
「岩見さん、逃げましょう。ここであなたが捕まったら終わりです」
 袖口を引っ張って、舞台裏へと連れて行こうとした。そこには外に繋がる勝手口があるのだ。劇場の出口は血の上った観客と、検束せんとする臨監の間で乱闘騒ぎになっていた。もしこのままやり合っていたら、仲間の殆どが捕まってしまうだろう。岩見さんは僕と出口前の騒ぎを見比べ、分かった、と頷いて背を向けた。迷いのないその背に続きながら、僕は唇を噛んだ。
 狭い舞台裏の通路を抜け、小さな扉を開けた先に、夕日で真っ赤に染まる空が目に入った。その瞬間、
「岩見だ!」
 捕らえろ、という声がかかった。
「なっ……!?」
 戸惑った岩見さんの声。僕を振り向いた彼の顔に浮かんだのは驚愕、次いで怒りだった。
「二井山、てめえ、俺を騙しやがったな!」
 掴み所のない笑顔ばかりだった彼の表情が、みるみるうちに歪んで、その目の奥に殺気が灯った。彼の肩越しに警官が駆け寄る姿が見えたが、一瞬だった。気付いた時には、彼の拳が僕を襲い、左頬をとらえた。がっ、という鈍い音は骨を伝って脳の奥にまで響いた。さらに二発、三発と続く。腹を足蹴にされる衝撃と共に倒れた僕は、地を転がった。口内に広がった鉄錆の味が不快で、唾を吐き出した。
 痛みを堪え、咳き込みながら、上体を起こす。岩見さんを見上げると、影になった彼の口元がにい、と吊り上がる。彼の右手に握られた、ぎらりと生々しい輝きが目に入った。刃物の鋭利な切っ先は、夕日を映してまるで血が染み着いているように見えた。
「二井山あああああ!」
 怨嗟の叫びと共に地を蹴った岩見の顔は、まさしく悪鬼の様相をしていた。逃げなくては、と思うが身体は思うように動かず立ち上がれない、それよりも何か武器になるものを――
「灯一さんっ」
 どんっと、軽い衝撃がと共に、僕の体に覆い被さる人物があった。仰向けに倒れ込んだ僕が、周囲を見回すと、呆然とした表情で膝をつく岩見さんの姿が目に入った。両手で握ったナイフは赤く、滴がしたたり落ちている。岩見さんから視線を外し、僕にしがみついていた人物にゆっくりと焦点を合わせた。その人物は僕から離れようと上体を起こした。その拍子に被っていた帽子が落ちて、長い黒髪が流れ落ちた。
「嘘だろ……」
 僕は唖然とした。
「何で……永和さんが……?」
 えいわ荘にいると誓った彼女が何故、ここで倒れているんだ?
 僕は目の前にいる永和の頬に触れて、触れられることに驚いた。黒髪に隠された顔立ちを確認した。大きな瞳に辛うじて安堵のような色が見えたが、すぐに苦悶の表情を浮かべた。脂汗が滲んで、流れ落ちる。
 彼女の唇が僅かに震えて、何かを紡ごうとしていた。僕はそれを聞き取ろうとして体を寄せた。けれど、聞き取ることは出来なかった。僕は彼女の顔に浮かんだ汗を拭って、もう一度言葉を聴こうとした。けれど、彼女はそれに薄く微笑むだけで、やがて目を閉じた。
「永和さん……? どうしたんですか、返事してください」
 揺さぶって、頬を叩いてみても、彼女は応えなかった。更に呼びかけて、名前を呼んでも一向に目覚めなかった。訳が分からなかった。今朝までいつも通りだったのに、なぜこんな真っ白な顔をしているんだ、彼女は?
「ははっ……」
 その嘲笑は、背後から聞こえた。振り向くと、警官に押さえつけられた岩見さんの姿が目に入った。彼の口元には皮肉な笑みが刻まれていた。
「これで永和は、それこそ永久に、完璧な存在になる」
 眉を顰めた僕に、岩見さんは笑った。いつも通りの、よく見知った捕らえ所のない微笑み。それは改めて見ると、空虚な抜け殻のようだった。

 僕と永和は、岩見を陥れるための共犯者になった。
 僕は長年連絡を絶っていた二井山家に戻り、事の顛末を洗いざらい話した。勝手に出て行った僕の頼みなど無碍にされても文句は言えなかったが、祖父は言葉少なに承諾した。代わりに、僕は思想犯摘発のための囮を引き受けることになった。
 二井山の祖父は、内務官僚を長く務めていたことは承知していたが、父が特高として共産党勢力に入り込み、内偵中に殉職したことを、この時初めて知った。祖父が僕に、頑なに映画界に入ることを反対したのは、職務に忠実であったから、という理由だけではかったのだ。
 祖父は早速大臣の許可を得て、特高を動かす準備を整えた。僕は岩見の元に舞い戻り、新しいメンバーと称して特高の人間を引き入れ、数ヶ月を費やして岩見の首もとに見えない縄をかけ、徐々に締めていったのだ。
 聞けば、岩見はプロキノ同盟員の中でも過激派で、上層部の人間も持て余していたらしい。どこかの段階で本来のプロキノとは袂を分かち、岩見は独自に活動を始めた。過激である反面、そこに強烈に魅せられた同盟員が、彼に従っていたようだ。
 特高から危険分子と見なされていた岩見が捕まった今、手放しで喜んでもいいはずだった……隣に永和がいるならば。
「俺は小志鳴永和を愛してた」
 僕の傷が癒える頃、留置場で面会した岩見は飄々とそう言ってのけた。
「一目見た時からだ。永和は完璧だった。誰にも汚されるべき存在じゃなかった。なのに桐島の奴は永和に手を出そうとした」
 その頃、桐島は阿片漬けで、人と会える状態ではなかった。故に、代筆だけでなく、本人として岩見が桐島を名乗っていたこともある、と岩見は平然と告げた。桐島が、元々社交的な方ではなかったから出来た芸当だ。
 しかし『君、白キ冬』は、連載を失っていた桐島の再起がかかっていたためか、岩見を押し退けあれこれと口を出していた。吹鳴座の小志鳴永和を押したのは清川監督で、桐島は一も二もなく賛同した。永和を見た桐島は酒に飲まれて茫洋とした目じりを下げ、岩見に言った。
 ――あれ、浪藤の娘だろ? 役欲しさに寝てても可笑しくねえよな。おこぼれに与れねえもんかなあ。
「……それで殺したのか?」
「やってねえよ。あれは桐島が馬鹿みてえにアブサン煽って、阿片まで飲みやがった所為だ。勝手に落っこちて死んだんだ。まあ、誰かに突き落とされても可笑しくねえけどよ」
 女癖が悪かったから、とあっけらかんと言い放った。
 乱雑な喋り方も、だらりとした格好も、今までの岩見との印象とは全く違った。ここにいるのは望みを絶たれた脚本家ではなく、落ちぶれたならず者でしかなかった。
「内海を殺したのは何故なんだ?」
 殺してねーって、と岩見は否定し、鼻を鳴らした。
「神罰じゃねえの?」
 ふんぞり返り、大げさに手を広げてみせた。
「永和は完璧なんだ。神の造形物なんだ。それが俗物たる男の種なんかで出来るわけないだろ? だから浪藤は聖母なんだよ」
 岩見の中では正当な理由なのだろうが、到底理解出来るものではなかった。
「……狂ってる」
「はっ、お前に言われたかないね、お坊ちゃん。お前にも神罰が下るさ……その内な」
 僕が睨みつけると、岩見が笑った。卑下た、厭らしい獣のような笑みだった。
「俺は永和を救ったんだ。不貞の獣からな」
 岩見はすっと指先を僕に向ける。その顔を見るだけで不快だった。席を立ち、背を向けた僕の後ろから、岩見の高笑いが響いた。

 留置場を出ると、雪が降っていた。
 僕は家に戻る道を辿りながら、懐かしい景色だと思った。どこで見たんだろう。少し首を傾げて、漸く思い至る『君、白キ冬』のラストシーンに似ていたのだ。
 東京へ向かう千冬が遠ざかっていくあの姿を思いだし、僕は足を早めた。
 ふと気付くと、降りしきる雪の中に小さな人影を見た。断髪に帽子、膝丈のワンピース。僕を翻弄し続けた千冬が真正面に立っていて、僕を見るなり微笑んだ。
 ――灯一さん。
 薄い唇はそう紡いだ気がした。僕の目に、雪の冷たさが滲みた。思わず顔を歪めそうになって、唇を噛んだ。もう二度と戻ってくることのない、愛しいひと。その幻ですら、僕にとっては特別で。笑って迎え入れたかったけれど、上手く出来たかどうか、分からない。
 永和はまるで僕を差し招くように手を伸ばした。この手を取って、どこか二人、遠くへ逃げようか。今ならば、きっと出来る。
 駆け寄って、彼女の手に触れた瞬間、僕の視界は暗転し、世界は溶暗した。

「カット!」
 という監督の合図に目を開くと、かっと強い照明が僕を照らした。真っ白な視界に目を細めていると、周囲から拍手の音が聞こえた。
 改めて、ぐるりと視線を巡らすと清川監督の姿が目に入った。無愛想な監督が、珍しく機嫌良さそうに見えた。それに百田氏も、岩見さんも。スタッフの姿や、警官の格好をした人たちも皆、拍手で僕を迎え入れた。
 ああ、そうか、と僕は納得した。これは映画だったんだ。
 ――お疲れさまでした。
 と花束を差し出したのは、銀幕で僕の相手役を務めた小志鳴永和だった。
 ああ、うん。とても疲れたような気がする。でも、こんな大役が回ってくることなんて、きっと一生ない。悔いはないよ。
 ――永和。
 僕は彼女の名前を呼んで、彼女の手を取った。それが許される世界で良かった。
 ――長い長い夢を見ているようだったよ。
 僕がそう言うと、永和はおっとりと笑う。
 ――夢で良うございました。
 と、彼女は控えめにおどけて見せた。
 僕の耳にからから……と映写機の回る聞き慣れた音が聞こえた。これは現実が、夢に巻き取られてゆく音だ。映画の見せる幻影が、僕たちを別の世界に導いていく、その合図なんだ。
 僕は周囲の歓声に応えて、手を挙げた。拍手はいつまでも耳の奥に木霊する。照明の眩しい白は、閉じた瞼の裏をも侵食し、埋め尽くし、一切の景色が消えた。



「一郎坊ちゃん、終わりましたよ」
 そう声をかけられて、僕ははっとした。声の主を見上げると運転手の山西さんだった。祖父と同じか、少し若いくらいの山西さんは二井山家に仕えて長く、祖父が特に信用して側に置いていた人物だった。笑みとともに深く刻まれた皺すらも、山西さんの人柄を物語って、どこか暖かみが感じられた。
 スクリーンは沈黙し、すでに演目は終わっていた。僕は咄嗟に映写機の方を振り向いたが、そこには始まる前にいた老紳士はおろか、映写機そのものも片づけられた後だった。
 しん、と静まりかえった劇場の中で僕は息を吐き、すっかり痩せて痛く感じるほどの座椅子に背を預ける。
「……大旦那様はこれを大事になすってたんですねえ」
 山西さんはしみじみと呟いて、十六ミリフィルムのケースを僕に差し出した。表題は『君、白キ冬』。昭和四年公開の無声映画だ。
 僕の祖父――二井山灯一の遺品整理をしていたら、出てきたものだった。祖父は生前映画が好きで、特に戦前の無声映画のファンだったらしい。映画のフィルムを何本も所有しており、それを見るために、空襲で焼け落ちることを免れた映画館の一つ、相島花天館を買い取り、改装したというから相当だ。祖父や往年の映画ファンを名乗る個人所有のフィルムやポスターなども所蔵された資料館も併設していたが、そのコレクション共々売却し、別のオーナーに経営を任せることになっている。
 僕は祖父のことをあまり知らない。祖母がぽつぽつと話すことには、昔は映画の仕事をしていたけれど、戦争のごたごたで映画会社が潰れてしまったのだという。その後は伝で総合商社に入社し、営業マンをしていたとか。数年後には子会社を任されて、今では名前を言えばそこそこの知名度を誇る建設会社へと成長した。その間に、親の薦めで祖母と結婚し、娘たる母を生み、そして孫たる僕が生まれた。
 祖父はとても物静かで、多くを語らない人だった。大企業の会長という地位にいるようにはちっとも見えなかったし、祖母とも母とも距離を置いているように見えた。だから、このフィルムを見れば多少なりとも祖父のことが分かるのかもしれない、と思ったが、四十分程度の短い映画だけでは、それも難しいことだった。
 けれど、このフィルムが祖父にとって特別なことは確かだろう。相島花天館ではなく、祖父の書斎に備えた飾り棚の奥に、まるで宝物を隠すように大事に仕舞われていて、埃一つ被っていなかったから。ただ、これが何かを尋ねた僕に対して、母さんは良い顔をしなかったけれど。
「一郎坊ちゃん、そろそろ戻りませんと」
「うん」
 山西さんに促され、僕は映画館を出た。フィルムを抱えたまま車に乗り込んだ僕は、もう一度入り口を確かめて、あっと声を上げた。入り口に立っていたのは、映写機を回していた山高帽の老紳士だったのだ。
 彼は再び帽子を掲げて一礼し、映画館の中へ消えていった。
「……大旦那様は、ほんとにあそこがお好きですなあ」
 山西さんにも見えたのか、しみじみ呟く声には湿っぽいものが混ざった。僕は車の後部座席のシートに身を沈め、十六ミリフィルムの入ったケースを眺めた。タイトルを眺めてから、裏返すと奇妙な一文が書いてある。
 ――君はフィルムの中に褪せることなく生きる。願わくば、僕と共に。
 じっとその一文を見つめながら、何となく見てはいけないものを見ているような気がした。背けるように元に戻し、山西さんに声をかけた。
「このフィルム……祖父ちゃんと一緒に焼いた方が良かったんじゃない?」
「奥様が嫌がられましたから」
「……置いておく方が面倒だと思うけどなあ」
 僕のぼやきに、山西さんは沈黙を守った。祖父を尊敬してやまない山西さんだが、我が二井山家の事情に立ち入ることを良しとしていない。
 僕はそっとケースを撫でた。色褪せてはいても傷みの少ない箱の表面には、臙脂色のレトロな書体でタイトルが記されている。
 結局、祖父の人となりはよく分からなかったが、この映画のラストシーンは妙に印象に残った。白いコートに身を固めた女性が雪の中へ去っていく姿はもの悲しく、思わず引き留めたくなった。
 恐らく、祖父も同じ気持ちを抱いたんじゃなかろうか。母は時折、僕と祖父が似ている、と愚痴をこぼしていたことがあった。隔世遺伝みたいに、感性が引き継がれている可能性もなくはないだろう。
 祖父は、あの冬を纏ったような女優に魅入られ、この映画の中に魂を閉じこめたまま生き、逝ったのかもしれない。それは、二人だけで完成さされた無謬の箱庭のよう。だからこそ祖母も母も、祖父を遠巻きにするしかなかった――
 窓の外、重く垂れ込めた鉛の雲からちらちらと雪が降り始める。冬の気配が色濃いこの季節に逝った祖父を、僅かばかり恨めしく思った。
 僕は流れゆく景色を断ち切るように、そっと目を閉じる。
 耳の奥、からからから……という乾いた映写機の音色が、いつまでも離れなかった。



※「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません」