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 今年もまた乾季が訪れて、最初の新月がやってきた。この塩祭りの夜に、外れにある家を訪れた少年は、古びた扉を叩こうと手を上げた。しかし、手が扉に届く前に、中からお入りなさい、という応えがあった。
 いつものように明かりを落として扉を開けると、暗い部屋に一人の老女がくつろいでいて、大事そうに琥珀色の笛を指でなぞっていた。
「いつものことだけど、よく分かるね」
 少年が感心したように声をかける。すると、彼女は口元に深く笑みを刻み、孫のような年頃の少年に向かって、慣れればなんとかなるものよ、と誇らしげに胸を張ってみせた。
 少年はその子供っぽい仕草に苦笑する。彼女は時々、その年齢だとは思えないほどの茶目っ気を見せる。かつては王都で偉いお役目をしていたと聞いているが、目の前の無邪気な老女からはそんな雰囲気を感じなかった。
「その笛。いつも持ってるけど、吹けるの?」
 足の悪い老女のために茶を入れてやると、彼女は笛を卓の上に置く。代わりに少年の手から瑠璃色の硝子の杯を受け取り、ありがとう、と顔を綻ばせた。
「この笛は、私のものじゃないの」
 だから吹けない、と彼女は首を振る。
「じゃ、誰の?」
「そうねぇ……」
 重ねられた問いに、しばし考えるような沈黙が落ち、やがて老女は口を開いた。
「なら、語りましょうか。この笛に纏わる、ひとりの乙女の夢語りを――」



乙 女 と 鳴 か な い 鳥 の 笛
Ehyra'l Mar'vat ore na err fluet.



 ――Sauthi fa dia, el dahja lios.……

 不意に、澄んだ少女の声を捉えて、ディアンは顔を上げた。
 ここのところ雨が続いていたせいか、少女の声を聴くのはずいぶんと久しぶりな気がしたが、指折り数えてみればまだ三日しか経っていない。
 傍らに置いた薬籠を抱え上げて、少女の声が流れてくる方へ向かう。
 勝手知ったる森なので、今更足を取られるようなことはないはずだが、ぬかるんだ土の感触がいつもの感覚を若干鈍らせる。雨に洗われて、顔を出した木の根に引っかかりそうになって、慌ててたたらを踏んだ。
 その際、咄嗟に手をついた木の枝には鳥の親子がいたらしく、彼らは驚いたように一声鳴いて空へと飛び立った。
「ディアンって、まるで動物みたいね?」
 いたずらっぽい響きを帯びた少女の声が耳を打ち、鳥が羽ばたいた方向を確かめていたディアンは少女の方を向き直る。
「動物ならもっと気配消せると思うけどな。ラーエこそ、こんな森で声だけ聞こえてきたら精霊か女神と間違うな」
「……ちょっと、大袈裟すぎると思うのよね……」
 ため息交じりにそう漏らした少女――ラーエに笑いかける。
「今の歌、『南より来る風』だっけ?」
 尋ねるとラーエはうん、と頷いて続ける。
「今日はいつもより空気が軽いような気がしたから、歌いたくなっちゃった」
「その歌聴くと乾季だなぁって気がする」
 そう相づちを打つと、ラーエは嬉しそうに、そうでしょう、と念を押す。少女は久しぶりの外出に、気持ちが高ぶっているようだ。いつもよりも声の調子が弾んでいた。
 ラーエは同年代の少女たちよりも大人しく控えめな気質で、感情を表に出すのが苦手であるらしい。しかし、彼女の声は彼女が思うよりも遙かに豊かな情感を伝えてくる。
 それは彼女の謳にも現れていて、決して技巧的に優れているわけではないが、誰もがラーエの歌に引きつけられる。
「なんだかディアンの顔を見るの、久しぶりだね……って三日しか経ってないのに、変な感じ」
 ラーエは歌うことが好きで、毎日のようにこの森に来ては歌っている。その歌の上手さは集落の皆が知っているが、ここで練習していることを知っている人間は少ない。
「晴れると歌いやすいし、気分が良いわ」
「やっぱり雨の日は辛いか」
「そうでもないわ。けど父さんも母さんも心配性なのよ」
 少女は不満そうに唇を尖らせるが、それも致し方のないことだと思う。彼女は病がちで、何度か命を危ぶまれたこともある。
「前から言ってるけど、一度親父に見てもらうか? 一応昔は王都で働いてたみたいだし、なんか分かるかも」
 一応勧めてみるが、答えは決まっている。迷うような逡巡の後、申し訳なさそうな返答があった。
「ごめんね……そうしたいのは、やまやまなんだけど……」
「分かってるって。いつもの爺さんがくたばってから、だよな」
「ディアンってば! もう、アクラのお爺ちゃんは家族みたいなものなのよ」
 軽口を叩いたつもりだったが、ラーエは生真面目に反論してきた。
「知ってる知ってる。ラーエが調子に乗って木登りして降りれなかった時に助けてくれたんだよな」
「……ほんっと、ディアンって意地悪だと私、思うわ」
 拗ねた様子のラーエだったが、すぐさま、あっと声を上げ、
「今日から針があるんだった。そろそろ帰らなきゃ。ディアンは今日も薬草探し?」
 尋ねられて、肩をすくめた。
「そう。ハシヤワナギとクスワナギを見分けろとか無茶にも程があるだろ」
 どちらも鎮静剤に使われる薬草だが、同種の植物なので似た特徴を持っており、クスワナギのほうが毒性が強く劇薬の類である。これを見分けることが薬師の初歩であるらしい。
「でも見分けないとイデナさんに怒られるんでしょう?」
「まぁな」
 ラーエの口から義父の名が飛び出して、ディアンは反射的に顔をしかめた。普段は温厚だが、こと薬学に関しては口うるさい。いや寧ろ、口より手が出る方が多いかも知れない。
「ねぇ、ディアン」
 別れ際、少女はいつになく神妙な様子で声をかけてきた。
「私、いつか王都に行くわ。王都に行って謡女になって、人々の慰めになりたいの」
 ラーエは一言一言に力を込めて、ゆっくりと告げる。少女の真っ直ぐな目がこちらを捕らえていることを感じながら、ディアンは頷いてやる。
 ラーエが自分の望みを口に出して確かめる作業をするようになったのは、いつのことだったろうか。
 そうやって意識しないと、思い出せないほど繰り返されてきた儀式に胸が痛んだ。彼女が祈りを重ねれば重ねるほど、現実の願いが遠ざかっていくような錯覚を覚える。
「……きっと、そうなるわ」
 言い聞かせるように呟く。心許なげにディアンの手を握る少女の指は、硬く乾いていた。

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